横浜FMで連覇に貢献した榎本達也、今明かす「ブラインドサッカー挑戦」の真実 サッカーのJリーグ横浜F・マリノスで03~0…

横浜FMで連覇に貢献した榎本達也、今明かす「ブラインドサッカー挑戦」の真実

 サッカーのJリーグ横浜F・マリノスで03~04年のリーグ連覇に貢献し、現在はFC東京普及部でサッカースクールのコーチを務める榎本達也さんが「THE ANSWER」のインタビューに応じ、現役引退後の17年から挑戦した視覚障がい者の「ブラインドサッカー」について語った。驚きを呼んだチャレンジの理由と、健常者が一緒にプレーする競技だから芽生えた障がい者に対する意識とは。


 ◇ ◇ ◇

 時を遡ること、およそ2年半。2017年2月、1つのニュースがサッカー界を驚かせた。 

 榎本達也、ブラインドサッカー挑戦――。

 前年に20年間着続けたユニホームを脱いだばかりのJリーグのGKが現役復帰する。しかも、名門・横浜FMで03年から2連覇に貢献し、04年の浦和とのチャンピオンシップ第2戦ではPK戦で2本を止め、優勝の立役者となったバリバリのトップ選手。舞台は、視覚障がい者の5人制サッカーで……。

 まさに、異例のチャレンジ。発端は、日本代表監督からのラブコールだった。

 引退を検討している16年シーズンの佳境、高田敏志監督から「ブラインドサッカー、やらないか?」と水面下で打診を受けた。ユニホームを脱ごうとしている身、「コーチとして、ということかな?」と認識したのも無理はない。しかし、正式に引退を決断すると、オファーが届いた。

「選手として、日本代表に関わってほしい」

 ブラインドサッカーはGKに限っては健常者が務めることができる。当時はルール改正により、ゴールマウスの規格が縦2メートル×横3メートルから縦2.14メートル×横3.66メートルに変更。従来の守護神の佐藤大輔に加え、世界で戦うためにサイズのあるGKが必要になった。そこで、190センチを誇り、Jリーグで通算290試合ゴールを守った36歳に白羽の矢が立った。

 しかし、本人が驚いたことは想像に難くない。ブラインドサッカーという競技があること自体は知っていたが、プレー経験はなく、ルールを知っているわけでもない。ましてFC東京の普及部でサッカースクールのコーチを務めることも決まっていた。ただ、高田監督の「合宿に来て雰囲気を感じてほしい」という熱意に押され、2月に足を運ぶと衝撃を受けた。

 アイマスクを着けた選手が、まるで視界があるかのようにボールを操り、シュートを放ってくる。しかし、視界がない分、打ってくるタイミングは従来のサッカーと感覚は異なる。しかも、2~3メートルの至近距離から。「JリーグのGKなら簡単なのでは?」と思われがちだったが、決してそんなことはない。ただ、この新しいサッカーとの出会いが心を揺さぶった。

「今までの常識が通用しない。それが、単純に楽しかったです。子供が新しいおもちゃを与えられた時の純粋な感覚があった」

 選手としてチャレンジするには覚悟が必要だった。スクールのコーチと二足の草鞋。Jリーグで20年間戦った実績を引っ提げ、周囲の期待は高い。生半可なプレーはできない。もともと器用ではなく、これと一つ決めたらのめり込むタイプ。だから、迷った。挑戦を決断させるに至った理由には、迷いの原因になっていたスクールのコーチ業にあった。

「現役の時もプロサッカー選手として、チャレンジはずっとしてきた。だから、子供たちにも『できないから、やらない』じゃなく『できなくても、まずやってみよう。一歩踏み出そう』と伝えてきた。その中で今の自分を見ると、子供たちを前にしてチャレンジしていない自分がいると思った。結末はどうあれ、まずはやってみようと」

 高田監督に「やります」と伝えたのは合宿から1か月後のこと。こうして「ブラインドサッカー選手・榎本達也」が誕生した。

ブラインドサッカー挑戦で「変えたもの」と「変わったもの」

 ブラインドサッカー挑戦で、榎本が変えたものと変わったもの、2つがある。

「変えたもの」はJリーガーとして生き抜き、培ったプロ意識だった。

 ブラインドサッカーの難しさはGKのプレーエリアが縦2メートル×横5.82メートルで決まっていること。加えて、キャッチングはもちろん、コーチングの技術には自信はあったが、声をかける相手には視界がなく、一筋縄ではいかない。

 努めたのは、選手の個性の把握だった。「この選手は強く伝えても大丈夫」「この選手は試合に入り込みすぎるので、タイミングを工夫しないと」。ブラインドサッカーは選手の立ち位置が数十センチ違うだけで失点率が変わる。だから、選手とのコミュニケーションを欠かさなかった。プロ選手として「勝つこと」に徹底してこだわり、役割を全うした。

「勝つこと」にこだわったから、チームの弱さも見えた。選手たちは純粋に競技と向き合い、成長を求めていた。その姿は、普段サッカースクールで教えている小学生と変わらないまっすぐさだった。しかし、甘さも感じた。「勝負事に疎いというか、負けても悔しがらないというか……」。それは、プロスポーツの世界で生きてきた者にとって見過ごせなかった。

 なぜ、負けたのか。何が悪かったのか。試合を終えても、あるべき議論に話が及ばない。「日本代表とはいえ、勝負所を意識していた人がいないな、と」。その思いを言葉にしたのは、合流から8か月後の12月に行われたアジア選手権だった。

 結果は過去最低の5位。「メダル獲得」を目標にした東京パラリンピックへ、数少ない国際舞台で不甲斐ない結果。「貴重な機会をいかに大切にできるかという大会で甘さを感じた」と痛感した。全試合を終えた夜のミーティング、本音で思いをぶつけた。

「負けたのは、試合に出ていた俺の責任もある。でも俺の責任でもいいけど、そんな慣れ合いでぬるま湯に浸かっているような奴らとはサッカーをやりたくない。俺がやめるか、お前らが辞めるか、どっちかだ。俺が辞めるのは構わない。俺の目的はみんながパラリンピックでメダルを獲って、その後にブラインドサッカーが発展していくこと。そのために少しでも自分の力が加わるなら、いくらでも助けるけれど、今のお前らとだったら、何も成し遂げられる気がしない」

 この言葉でチームは変わったという。以降、合宿では言わずとも選手同士で言い合う姿が見えた。少なからず、プロ意識が芽生えた証し。榎本は「もし、僕がブラインドサッカーに残せたものがあるとするなら、それは『対話』だったかなと思う」と言う。

「自分の意見を伝えるし、人の意見を聞く。受け入れるし、要求もする。でも、要求するからには自分がやらないと、人には伝わらない。現役の時から、そこは自分の持ち味だと思っていたので、かなり彼らには言ってきた。それが活きるとうれしいかな」

 そして、「変わったもの」は自身の価値観だった。

 ブラインドサッカーは健常者と障がい者が一緒にプレーする、パラスポーツでも珍しい競技。ただ、特に抵抗感はなかったという。挑戦を決めた時は「特に偏見も何もなく、本当にまっさらな状態」だった。むしろ、一緒にプレーしてみると、視界がないのに強烈なシュートを決められたことに驚き、逆に視界がない分、繊細な感性を持っている選手に多く触れたことは新鮮だった。

「どこかで健常者と障がい者に“隔たり”がある。僕もそう思っていた一人だった」

 だからこそ、ブラインドサッカーに挑戦して良かったことを問うと「価値観が変わったこと」を挙げた。

「どこかで健常者と障がい者に“隔たり”があるじゃないですか。僕も彼らと出会わなければ、そう思っていた一人だったと思う。目が見えない人も、他の障がいがある人も、それが良いか悪いかという話でもないし、かといって目が見える人、耳が聞こえる人、何も障がいがない人がすごく恵まれているかというと、そういうことでもない。彼らも普通に壁にぶち当たるし、心が折れることもあるし、怒ったりも悲しんだりもする。すべては、目が見えないから彼らにはないわけでないということ。

 目が見えないということだけで、生きる世界は僕らと何も変わらない。僕らはその中でサッカーをはじめ、いろんなスポーツがある。でも、彼らは目が見えないからルール上、ブラインドサッカーという形になるだけ。そうやって、実際に障がい者スポーツを経験してみると、まだまだ自分が知らない世界は多いと感じた。いろんなことに気づかされ、考えさせられ、自分は学べるし、大きくなれる。人間形成において、この年齢になっても、まだ成長できると感じたことが大きな財産になった」

 健常者と障がい者。そのラベリングにより、無意識のうちに“隔たり”が生まれ、両者の距離を遠ざけている。しかし、スポーツというツールで、ともに目標を共有したから「変わらない世界」があると実感した。人生において、大切な気づきだった。

 代表でプレーした時、同僚の川村怜選手に言われた言葉が忘れられないという。「目が見えないけれど、ブラインドサッカーのピッチでプレーしている時が一番、自分に自信が持てる。あのピッチは僕にとっての自由なんだ」。なるほど、と思わされた。「自分たちの世界でしか考えの物差しを持っていなかったと、新しい価値観に気づかされた」。榎本はそう懐かしそうに言って、笑った。

 かけがえのない経験を得ることができた挑戦。榎本は昨夏をもってブラインドサッカーの代表から退いた。FC東京普及部のコーチ業との活動から参加が限定的になることから、東京パラリンピックメダル獲得の思いは仲間たちに託した。しかし、全力で駆け抜けた2年半、与えられた役割は全うした。もちろん、ブラインドサッカーとパラスポーツに対して、情熱が消えたわけではない。

「僕はブラインドサッカーだけが盛り上がってほしいわけではない」と断った上で、「こういう世界で自分を高めようと努力して戦っている人がたくさんいることを知ってほしい。知ること自体が彼らにとってのエールになると思うから」と言う。

 その上で、自身が変わった障がい者に対する意識と思いを明かした。

「例えば、今までも周りを見て歩いているつもりだったけど、ブラインドサッカーをやると、街中で白杖(視覚障がい者用の杖)を持っている人がいかに多いかと気づかされた。その中には困っていそうな人もいるし、何事もないように仕事をしている人もいるけれど、意識すると、そういう人たちが実はすごく多い。耳が聞こえない人も車いすに乗っている人もそう。障がいがあるだけで彼らも同じ世界を生きて、いろんな競技に挑戦している人もいて、スポーツと共存している。そのことを知ってほしい」

 現在はサッカースクールで小学生に指導する立場。ブラインドサッカーに挑戦したからわかったこともある。「言葉の質」も、その一つ。子供は10人いれば、10人の性格がある。大切なことは「自分がどれだけ、子供に伝わる言葉の引き出しを持っているか」という。

「それはブラインドサッカーをやることで、視覚のない選手たちがどうすれば動いてくれるか、どの言葉をどのタイミングで伝えると理解されやすいのか、『今の言葉で理解できた?』『タイミングはどうだった?』と意思疎通しながら、考えさせられた部分。同じように、子供たちに『この言い方は響かなかったな』と意識が向いて、まだまだ足りない部分があると気づかされている」

「僕からしたら『オリパラ』ではなく、2つともオリンピック」

 最後に、1年延期された東京パラリンピックに対する思いを聞いた。

 2年半、戦ってきたブラインドサッカーの仲間たちが、あるいは彼らと同じように競技に懸けてきたパラアスリートたちが、4年に一度の舞台で大いにスポットライトを浴びてほしい。榎本にとってはきっと、そんな思いがあるではないかと思った。

 しかし、話を振ると「その前にオリンピックをやりますよね。僕は何もそこと変わらないで見ていてほしいのですよ」とやんわりと制した。そこには、胸を打つ真意があった。

「僕からしてみたら『オリパラ』じゃなく、2つともオリンピックなので。2つのオリンピックとして、しっかりと見て、凄さを感じてほしい。ただただ、それだけです。勝っても負けても、選手たちの頑張りは間違いなくあるので称賛してほしいし。たとえ上手くいかなかった時でも称賛してほしいけれど。

 でも、やっぱり叱咤激励というか、どこかで『いや、もっとできたかな』という言葉も一方で生まれないといけないと思う。選手たちが満足してしまってはダメだから。『よく頑張った』という声と『もっとやれた』という声と、その両方を届けてほしいという気持ちがあるかな」

 そう言った後で、榎本はニヤリと笑った。

「僕はそういう風に観て、ブラインドサッカーの彼らには伝えようと思ってますよ」

 健常者と障がい者の“隔たり”を取っ払い、ともに本気で戦ってきたからこそ言える言葉。異例の挑戦をした元Jリーグ守護神は“チームメート”を今も思い続けている。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)