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 2001年4月1日はプエルトリコ野球史におけるエポックとなった。この日、プエルトリコ初のMLB公式戦がこの年のMLB開幕戦として「首都」サンファンのヒラム・ビソン・スタジアムにおいて行われたのである。

2001年4月1日、サンファンのヒラム・ビソン・スタジアムでは、トロント・ブルージェイズ対テキサス・レンジャーズによるMLB開幕戦が行われた。



 その後、2003年から2シーズンはモントリオール・エクスポズがプエルトリコをサブフランチャイズとするなど、これまでヒラム・ビソン・スタジアムではMLBの本拠地球場以外では最多の52試合の公式戦が行われている。

 しかし、MLBの影響力が強まれば強まるほど、プエルトリコ野球は独自性を失うというジレンマに陥っている。アメリカ領という政治的立場は、この島をMLBの草刈り場とし、人材の流出は加速化している。

 プエルトリコのウィンターリーグには、この「国」が生んだ最大の英雄、ロベルト・クレメンテの名が冠せられている。

 このリーグ、「リガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・ロベルト・クレメンテ」は、かつては 試合数も多く、シーズンチャンピオンを決める決勝シリーズは9戦5勝制を採用し毎試合スタンドは満員となっていた。

 しかし、2000年代に入ると急速に衰退に向かった。他のラテンアメリカの国と違い、アメリカ国籍を持つプエルトリコの若い選手は、ビザの枠に縛られることなくMLBドラフトで指名され、本土へ渡っていく。

 成功し、巨額のメジャー契約を手にした選手は、月数千ドルという低報酬のウィンターリーグに参加することはもはやなく、オフの間もプエルトリコに帰らず、フロリダに建てた豪邸で過ごすようになった。

 マイナーリーガーたちも、本土に生活の拠点を築くようになり、やがて島には帰らなくなる。この時期以降、プエルトリカンリーグは、メジャーで契約を失った者とマイナーリーガーが集う「就活リーグ」と化してしまった。

 参加チームは毎シーズンのように身売りや移転を繰り返し、スタンドには閑古鳥が鳴き、ついには2007-08年シーズンをキャンセルするという事態にまで陥った。2009-10年シーズンからは、それまでの6球団が5球団に削減された。

 2017-18年シーズンは、ハリケーンの影響もあり、またもやキャンセルかと思われたが、カリビアンシリーズに代表を送るべく、年明けに開幕。しかし、1か月足らずの短いレギュラーシーズンと決勝シリーズを行うだけのミニリーグと化してしまった。

 昨冬は、そんなプエルトリコの苦境を象徴するシーズンとなった。リーグ戦は、4球団による11月半ばから年末までの各チーム36試合の短いレギュラーシーズンののち、年明けからのポストシーズンという往時に比べれば非常に小規模なかたちでなんとか実施された。

 年明けからの上位3チームによる各チーム12試合ずつの決勝リーグの後、その上位2チームによる7戦4勝制の決勝シリーズを勝ち抜いたのは、カングレヘロス・デ・サントゥルセ。しかし、プエルトリコ勢3連覇をかけてカリビアンシリーズでは0勝4敗で敗れ去ってしまった。

ヒガンテス・デ・カロリーナの本拠、ロベルト・クレメンテ・スタジアム



 このような野球をとりまく状況は、プエルトリコ社会の反映と言っていいだろう。

 プエルトリコではこれまで何度もアメリカから独立するか、州に昇格するかの住民投票が行われているが、その度にこの島の住民は、そのどちらもない、プエルトリカンとしてのアイデンティティを保ちながら米国市民としての富を目指すことのできる現状を選択してきた。

 しかし、この現状は、島からの若者を中心とする労働力の流出を招き、プエルトリコはアメリカ合衆国の「過疎地」となりつつある。野球もまた同様で、プエルトリコ野球は今、アメリカ野球の周辺的地位に甘んじるとともに、ラテンアメリカ野球における地位も低下させている。
 
 現在プエルトリコ野球は苦境に立たされていると言っていいだろう。

文・写真=阿佐智