マイケル・ジョーダンの現役最終年となった1997−98シーズンに密着したドキュメンタリーが話題を呼んでいる。 引退から17年。いまだに色褪せない”神”と呼ばれた男と1on1をした経験を持つ、日本人の物語を知っているだろうか?ジョーダンと1…

 マイケル・ジョーダンの現役最終年となった1997−98シーズンに密着したドキュメンタリーが話題を呼んでいる。

 引退から17年。いまだに色褪せない”神”と呼ばれた男と1on1をした経験を持つ、日本人の物語を知っているだろうか?



ジョーダンと1on1で対戦した少年は今年34歳になった

 神様が目の前にいる——。

 ノースカロライナ大の23番のユニフォームを着た身長150cmに満たない少年は、ドリブルをしながら心臓の高鳴りを必死で抑えていた。

 レッグスルー、ポストアップ……。何日も前から父と一緒に考えた、とっておきのムーブを懸命に思い出し、平常心を保とうとしたが、最初の左手でのレイアップを外すと緊張は頂点に達し、吐き気すら覚えた。1本シュートが決まり、どうにか落ち着きを取り戻すと、あとは夢中でボールを追った。

 1on1が終わった直後、少年はジョーダンが持っているボールを指差し「そのボール、もらっていい?」とジェスチャーで伝えると、神様は大きな手でポンポンと少年の頭を数度触れ、ボールをプレゼントしてくれた。

 その後、サインがほしかったのか、何か伝えたかったのか、もはや理由は覚えていないものの、少年はロッカーに戻ろうとするジョーダンを追いかけた。少年に気づいたジョーダンは、着ていた23番の白いユニフォームをその場で脱ぎ、少年に投げてくれた。

 そのボールとユニフォームは、「KJ」こと松井啓十郎(京都ハンナリーズ)の実家のリビングに、今も大切に飾ってある。

 1996年9月12日・13日、横浜アリーナで開催された『NIKE HOOP HEROES』。ジョーダン初来日というだけでなく、MLB挑戦からNBAに復帰し、2度目のスリーピート(3連覇)の足がかりとなる優勝を飾った年ということもあり、ジョーダン見たさに満員の観客が横浜アリーナを埋め尽くした。

 イベントにはジョーダンのほかにも、チャールズ・バークレー、ジェイソン・キッド、マイケル・フィンリー、デイモン・スタウダマイアー、スペシャルゲストはカール・ルイスという豪華な面々が顔を揃えていた。

 このイベントの大トリとして企画されたのが、ジョーダンとKJ少年の1on1だった。この大役に彼が指名されたのには、前日譚がある。

 1992年、バルセロナ・オリンピックが開催され、ジョーダンを筆頭にNBAのスター軍団が”ドリームチーム”として出場。平均44点差という圧勝劇を演じ、アメリカが金メダルを獲得した。

 このドリームチームが世界中に与えた衝撃は大きい。トニー・パーカー(フランス)、ダーク・ノビツキー(ドイツ)、パウ・ガソル(スペイン)、マヌ・ジノビリ(アルゼンチン)といった、その後NBAで活躍することになるアメリカ以外の国の出身プレーヤーたちは、ドリームチームに影響を受けたと口を揃える。

 世界中のケイジャー(バスケットボールプレーヤー)に夢を見せたのが、ドリームチームであり、マイケル・ジョーダンだった。

 そして、遠くアジアでも、その影響を受けたひとりがKJだった。

「正確に言うと、ドリームチームを見て最初に影響を受けたのは父でした。ジョーダンのプレーを見て、僕に『バスケをやってみないか?』と勧めたんです。僕自身、バスケを始めてすぐに面白くなって、ジョーダンに憧れるようになりました」

 ミニバスのチームに加入することもできたが、アメリカではミニバスがないことを知った父にアドバイスされ、最初から大人が使うリングとボールを使って公園で練習した。

 バスケを始めて数年、東京でスティーブ・カーとショーン・エリオットがバスケットキャンプを開催することを知ったKJは参加を即決する。動画サイトなどもまだ発達していない時代に、現役のNBA選手が開催するキャンプで直接指導してもらえるのは貴重だった。

 現在、カーはゴールデンステート・ウォリアーズのヘッドコーチとして知られるが、現役時代はリーグ屈指のシューターとして名を馳せ、シカゴ・ブルズの2度目のスリーピートにも貢献している。カーとアリゾナ大時代のチームメイトで仲がよかったエリオットもまた、1999年にサンアントニオ・スパーズの初優勝に貢献した名プレーヤーだ。

 KJが参加したクリニックから1年後、『NIKE HOOP HEROES』開催前のミーティングにエリオットが参加していた。そして、1on1でジョーダンと対戦相手となる小学生をどう選んだらいいだろうという話題になった時、エリオットが助言した。

「バスケがうまい日本人の少年を、ひとり知っている」

 KJは1on1をして以来、ジョーダンへの憧れをより一層強くしていった。過去の映像も貪(むさぼ)るように見て、マネたりもした。

 最も印象に残っているのが、”The Move”と呼ばれるショット。1991年、ブルズがロサンゼルス・レイカーズと対戦したNBAファイナル第2戦、ジョーダンがリング正面から右手でワンハンドダンクを狙い、サム・パーキンスがブロックに跳ぼうとするのを確認し、ボールを左手に持ち替え決めたショットだ。

「何度も何度も、繰り返し練習しましたね。ただ、ジョーダンのように手が大きくないので、ワンハンドでボールを掴めず、何度やってもうまくできなかったです(笑)」

 その後、2000年にKJはアメリカ・メリーランド州にあるモントロス・クリスチャン高校に進学する。すると翌年、1999年1月に2度目の引退を発表したジョーダンがワシントン・ウィザーズで現役復帰することを発表した。

 幸運なことに、KJが住む街からウィザーズのホームアリーナ「キャピタル・ワン・アリーナ」は、それほど遠くはない。しかし、KJはあれほど憧れたジョーダンの復帰後の試合を一度も観戦していない。

「あの頃、もう自分のことで必死でした。モントロスに入学して2軍生活が続き、どうしたら1軍に上がれるか、試合に出られるか、自分のことで精一杯だったので」

 モントロスは、ケビン・デュラント(ブルックリン・ネッツ)やテレンス・ロス(オーランド・マジック)といった現役のNBA選手や、富樫勇樹(千葉ジェッツ)といった選手を輩出する名門校。ポジション争いは熾烈を極めた。

「同じポジションに、自分より背の高い選手も、スピードのある選手も、テクニックがある選手もいる。ジョーダンのように、ドライブでもジャンパーでも得点できるようなオールラウンダーになりたかった。

 でも、そこを目指していたら試合に出られない。何を武器にすればいいかを考え抜き、シュート力を向上させようと思ったんです」

 ジョーダンに憧れて競技を始め、初めて壁にぶつかり、ジョーダンにはなれないと気づいた少年が選んだのは、オールラウンダーではなく、スペシャリストになることだった。

 その後、ひたすらロングレンジからのシュート練習を積み重ねたKJは、渡米3年目の11年生——日本の高校2年の時に1軍に昇格。最終学年ではスターターに定着し、3Pシューターとしてチームに大きく貢献している。

 その活躍が認められ、2005年には日本人では田臥勇太(宇都宮ブレックス)以来となる『Nike Hoop Summit』に世界選抜の一員として出場。さらにコロンビア大学に進学し、日本人男子として初となるNCAAディビジョン1でのプレーヤーとなった。

 KJとジョーダンの横浜アリーナでの1on1には、後日譚がある。

 翌1997年、KJはシカゴで開催されたジョーダンが主催する「ジョーダン・キャンプ」に参加している。キャンプの目玉は、参加者のなかからジョーダンが指名した選手が行なえる1on1。

 ジョーダンが「1on1の希望者は?」と尋ねると、参加者全員が勢いよく手を挙げた。参加者を見渡すジョーダンは、ひとりの少年に気づき、彼を対戦相手に指名してこう言った。

「彼はうまいぞ。日本で一度、対戦したことがあるんだ」

 あの頃、誰もがジョーダンに憧れ、誰もがジョーダンになることはできなかった。KJもそのひとりだ。

 KJが出場した『Nike Hoop Summit』でアメリカ選抜としてプレーしたルー・ウィリアムス(ロサンゼルス・クリッパーズ)は現在もNBAでプレーしているが、モンタ・エリスやタイラー・ハンズブローといった選手はすでにプレーをしていない。

 一方、KJはBリーグの京都ハンナリーズでプロ11年目のシーズンを終え、今季は47.2%の高確率で3Pシュートを沈め、ベスト3P成功率賞を受賞している。

 あの日のジョーダンの言葉が、今も現役を続けるKJのモチベーションのひとつになっているのは間違いない。

「彼はうまいぞ」

 KJの胸のなか、神様の言葉が今も響いている。