3月24日に発表された東京五輪の1年延期を受け、日本陸連は4月17日にマラソンと競歩の出場内定選手を維持すると決定した。その代表のひとり、女子マラソンの鈴木亜由子(日本郵政グループ)は、1月末に負傷した右太腿肉離れが癒え、4月末には3カ月ぶりに走り始めたと報道された。



髙橋昌彦監督(写真右)指導のもと、昨年9月のMGCで東京五輪出場内定を決めた鈴木亜由子選手

 鈴木を指導する日本郵政グループ女子陸上部の髙橋昌彦監督は、ケガの状態をこう説明する。

「痛めた患部が座骨の付着部に近いところだったので、完治には時間がかかるだろうと言われていました。最初は2週間ごとに、MRI検査を受けながら炎症が引くのを慎重に見極める状況でした。その頃はまだ五輪の延期が決まっていなかったので、時間がない中、急ぎすぎて中途半端に練習を始めて、また同じことが起きてしまってはいけない、と心配していました。

 じっくりと回復期間をおいて5月くらいにマラソン練習をスタートしようと考えていましたが、(五輪が)延期になったことで、精神的な余裕度は増えたような気がします。『それなら急ぐ必要はないね』という感じで、延期をプラスに捉え、再発しないように落ち着いてやっていこうと話しています。ケガが起きた原因もしっかり検証できたので、その点でもよかったと思います」

 五輪延期の決定後に、まず髙橋監督が鈴木と話したのは、「自身の五輪のことだけで今回の延期を考えれば、プラスに捉えることができる」ということだった。

「五輪へ向けて、ハードなことをやろうと考えていたので、不安もあったのは確かです。本人もメダルを獲るための覚悟を持って練習していきたいと言っていたし、私もそのつもりでした。そうなれば、おのずと強度が高い練習になります。普段なら『ここは休ませてやりたい』と思うところでも、『世界を目指すならもう一押ししよう』ということもあり得たわけです」

 鈴木は、これまでも足の痛みやケガが多かっただけに、故障と紙一重まで詰めていくことへの不安は小さくなかった。だが、五輪が延期になったことにより、その厳しい練習をケガ明けすぐではなく、じっくりと体づくりをしてから始められるチャンスを与えられた、というわけだ。

「彼女自身に、『あぁ、1年延びちゃったな』というネガティブな気持ちは、まったくありませんでした。むしろ『もう1レースくらい、ちゃんとマラソンをやっておきたい』と、もう少しレース経験があったらいいと思っていたので、そのチャンスができたという印象です。

 本来なら、今年の冬に女子の選考とは関係なく、高速レースになる東京マラソンあたりにも興味があったのですが、昨年9月にMGCを走っていたので、故障のリスクも考えてやめました。そこで、少し距離を抑えた2月の熊本の30kmにしておこうとなっていたんです。

 だから今回の延期によって、もう一回マラソンを走るチャンスをもらえたと思い、じっくり時間をかけてトレーニングを行ない、新型コロナウイルスの感染状況次第ですが、年明けに海外の選手と競り合えるマラソンをひとつ走ってみたいと話し合っています。鈴木が走ったこれまで2回のマラソンは、すべて国内選手同士のレース。五輪に向け、海外選手の中で走ることにより、高いレベルの緊張感を経験しておくのは必要だと思います」

 ただ、現在は全国的な緊急事態宣言下にあるため、外出制限もあって練習が規制されているのも事実だ。以前なら使えていた大学のトラックは使えなくなっており、集団で走れていた公園でもマスク着用で人が少ない時間を見計らい、細心の注意をはらって個人でジョギングする程度。周囲の状況を見ながら工夫して練習を行なっている。

「例年なら、今の時期は主力組が日本選手権などを目指して海外合宿へ行き、ほかの選手たちは東京を拠点にしながら時折国内合宿に行くというふうに、チームの活動が分かれていました。駅伝シーズン以外はなかなか全員が(国内に)揃うことはなかったのですが、今年は創部以来全員が同じ状況です。考えようによってはこういう時期があってもいいのかなと思いますね。

 海外の選手の場合は、9月上旬にトラックシーズンが終わると、それから3カ月くらいオフを取り、クロスカントリーから長距離シーズンに入っている選手が多いんです。でも、日本の実業団選手の場合は、春から夏にかけてはトラック、冬に駅伝をやってマラソンまで走ると、オフシーズンは1カ月あるかないか。年中走っているからこそ、この時期に選手は休養をとって、しっかりベースを作る期間だと考えればいい。忙しくない期間も必要だと思います」

 鈴木は中学時代から第一線で競技を続けているが、高校時代はケガの連続で、継続的に走ることができなかった。髙橋監督は「そんなふうにハードな練習ができなかった時期があったからこそ、いろんな意味での溜めができて、大学や実業団での活躍につながったのではないか、と思います。その意味では、今回の五輪延期で試合がなくなって無理をさせなくてもいい時期ができたことにより、選手の競技寿命を伸ばせることになるのかもしれません」とも言う。

 チーム全体を見れば、トラック競技で東京五輪を狙う鍋島莉奈と廣中璃梨佳が今年は一緒に練習するようになり、ほどよい緊張感も維持できる状況だ。さらには、若手選手たちもこれまでと違って主力選手と一緒に練習する時間が増えることで意識が変わるのではないか、という期待もある。

「こういう状況だと、選手の個性も見えてくるのが面白いですね。マラソンに向いている選手はコツコツマイペースでやれる一方、トラックで常に勝負を楽しんでいる選手は刺激(レース)がないので飽きてきたりもするようです。なるべく選手たちが飽きないように練習メニューを変えているのですが、この状況ですし、やはり限界はあります。

 鈴木に関して言えば、ケガをしてリハビリに取り組んだ長い期間がこれまでに何度もあったので、我慢できる強さがある。そこで競技意欲が落ちたり、五輪へ対してモチベーションが低くなったりすることはないと思います。今は鈴木に限らず、他の選手たちも溜めを作る期間になると思うので、この時期をどう過ごすかによって、レース活動が再開したときに成果を発揮する選手とそうでない選手に分かれるのだろうと想像しています。

 だから、こういう時期は練習で体のスタミナを作るだけではなく、本を読むなどして、じっくり自分と向き合い、想像力を高め、心のスタミナもしっかりとつけてゆこうと選手たちには話しています。長距離はエネルギーを消耗するスポーツなので、いかにその消耗を軽減するか、という課題があります。その点では、それぞれの選手がレースのない期間をきちんと受け止め、精神的にも成長してもらいたいんです。いろんな意味でのエネルギーを充電して溜めを作ることは、次のピーキングに向けて必ず生きてくると思います」

 髙橋監督は、今こそ自分たちが実業団チームに所属して、恵まれた環境にあることを実感できる時期だとも話す。ケニアやエチオピアなど、海外の選手たちは、一部のトップ選手を除けばレースに出て賞金を稼ぎながら競技を続け、生活している場合がほとんどだ。その中から強い選手がどんどん輩出してくる状況だったが、今はレースがなくなったことで、そのサイクルが一時期的に途絶えてしまう可能性もある。なかには、生活に不安を感じる選手たちもいるようだ。つまり、世界中で行なわれているロックダウンが解除されたあとには、選手の勢力図が変わってくる可能性もある、というわけだ。

 日本人選手は、実は自分たちが恵まれた環境にいることをどう受け止めているのだろう。今は様々な活動に制約がかかる苦しい時期だからこそ、選手たちにとっては、自分の置かれた環境や競技への向き合い方をもう一度しっかりと考えるよい機会なのかもしれない。