新体操とともに歩んだ人生

 「(引退試合は)人生の宝物です」と、笑顔で振り返るのは、体操部新体操部門の河崎羽珠愛(スポ=千葉・植草学園大付)だ。早大入学当初から五輪出場を掲げ、毎日の積み重ねを大切にしてきた。しかし、大学3年時頃から、その夢がかなわないことをひしひしと受け入れ、集大成に向けて再出発。山あり谷ありの競技生活だったが、有終の美で飾ることができた河崎の4年間の軌跡をたどる。

 河崎が新体操と出会ったのは5歳の時、母親の知り合いが営む体験教室だった。中学時代までは結果が出ず、何度か諦めかけた時もあったと振り返る。頭角を現したのは高校時代。河崎は記録が伸びた理由を、通信制ではない高校に通うことで、様々なスポーツに取り組む友達から刺激を受けたからだと語る。高校時から勉強と新体操の両立を図っていたが、早大への進学を後押ししたのは、所属していたクラブチームの監督だった。当初は早大の受験は視野に入れていなかったが、文武両道の可能な環境に惹かれ進学を決めた。 


引退試合に臨む河崎

 早大入学後の10月には、高校時代からの3連覇がかかった全日本選手権に出場した。数カ所でミスを犯してしまうが、実力をつけてきた下級生を差し置き、自信のある演技で当時の自己ベストを更新。この3連覇の達成は、印象に残る大会の一つとなったと振り返る。その後12月には、足の手術と入院を経験したが、「リハビリによってまた競技に復帰できる」と、前向きに乗り越えた。2年時には、ユニバーシアードに出場し、高校時代と同様に世界大会も経験。全日本学生選手権(インカレ)では、毎年優勝候補の一角として臨み、表彰台入りしたが、頂点は逃す結果となった。河崎は鬼門となったインカレを「魔物がいたのかな」と振り返るが、他大学からの応援と歓声を受けられる、好きな大会の一つでもあったという。

 3年時には世界大会の一つであるアジア大会を経験。しかし、国別対抗戦のメダル獲得に対する強い気持ちが悪い方向に働いてしまい、自分らしいダイナミックな演技ができなかったと振り返る。気持ちに影がさしたまま全日本を迎えてしまい、自信を失いかけていた。また同じ頃ルールの改正が行われ、技術点の上限がなくなり、技を詰め込むことができるように。新体操界で柔軟性に劣る河崎は、腰を使った技や難易度の高い技を組み入れるのに苦戦。下級生の伸びに焦りを感じている最中、演技内容とともにスピード感も求められ、息つく間もなかったと振り返る。

 4年時の初戦である代表選考会では、緊張によりミスを連発。種目間の切り替えがうまくできなかったと悔しさを滲ませた。その頃、選考基準が発表され、五輪出場の可能性が低くなっていることを、ひしひしと受け入れるようになった。身体面と相談しながら日々練習に励むように。悔しさもあったが、「今いる場所で新体操を楽しむ」方向にかじを切ったと振り返る。その後のインカレと全日本選手権は、結果にこだわらず試合を楽しめたと振り返り、「人生の宝物」になったと笑顔を浮かべる。人の心を動かせる演技ができたことに達成感を感じ、成長できたと語った。同時に「関わってくれた全ての人に感謝をしたい」と述べ、周囲のサポートに謝意を表した。卒業後は所属していたクラブチームで指導することに。美の追求の競技の中で個性を光らせるために、河崎は挑み続ける。

(記事 足立涼子、写真 涌井統矢氏)