私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第13回サッカー人生を劇的に変えた運命の出会い~阿部勇樹(1)「オシムさんがいなかったら、今の僕はいなかったでしょうね」 阿部勇樹にとって、イビツァ・オシムとの出会いは、まさしく人生を大きく変える運命…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第13回
サッカー人生を劇的に変えた運命の出会い~阿部勇樹(1)

「オシムさんがいなかったら、今の僕はいなかったでしょうね」

 阿部勇樹にとって、イビツァ・オシムとの出会いは、まさしく人生を大きく変える運命的なものだった。



オシムとの出会いについて語る阿部勇樹

 オシムが、ジェフユナイテッド市原・千葉(当時ジェフユナイテッド市原)の監督に就任したのは、2003年だった。

 どんな監督だろう--。

 阿部は、楽しみにしていたという。

 阿部はそれまでにも、ズデンコ・ベルデニックやジョゼフ・ベングロシュら、優れた外国人監督のもとでプレーしてきた。学ぶことが多く、外国人監督に対する印象は悪くなかった。

 オシムについても、ドラガン・ストイコビッチらを軸とした旧ユーゴスラビア代表を率いて、1990年イタリアW杯でベスト8という結果を残した名将であることは、事前に聞いていた。ただ、すごい監督だろうが、どんな監督なのか、阿部を含めて、ほとんどの選手が知らなかった。

 唯一、当時のチームメイトであるジェリコ・ミリノビッチがスロベニア出身で、オーストリアでプレーしていたこともあって、オシムのことを知っていた。

「すごくいい監督だ。とくに若い選手にとってはプラスだが、非常に厳しい監督でもある」

 その言葉は、当時21歳の若き阿部の脳裏にしっかりと刻まれた。

 オシムがチームに合流したのは、シーズン開幕前の韓国キャンプだった。阿部はまず、オシムの存在感、その迫力に圧倒されたという。

「体が大きくて、鋭い目つきで、しかもオーラがあって……。最初から、存在感がすごいなって思いましたね」

 オシムは、チームに合流してからすぐに「相手に走り勝つこと」をテーマに掲げ、選手をみっちり鍛え始めた。「ジェフ陸上部」とも言われた、走りに重きを置いた練習に悲鳴を上げ、不満をもらす選手もいたが、オシムは自らのやり方を曲げることはなかった。

 リーグ開幕前、それに先駆けて始まるナビスコカップ(現ルヴァンカップ)の予選リーグに臨む数日前のことだった。阿部は、江尻篤彦コーチに呼ばれ、こう言われていた。

「阿部、おまえがキャプテンだ。頼むぞ!」

 まさかのキャプテン指名に、阿部は驚き、声を失った。

「(自分は)まだ21歳で、経験も実力も足りない。チームの中にはほかに、経験豊富で年齢が上の選手がたくさんいる。『なぜ、自分なんだろう』って驚いたし、『なんで、あいつなんだよ』って思っていた人も多かったと思うんですよ。だから、正直『マジか。やりづらいな……』って思いましたね」

 キャプテンを任されたことについて、オシムからは直接、何も言われなかったという。

「(オシムからは)『こんなふうにやってくれ』とも、『こんなキャプテンで』とも、言われなかったですね。『なんで、自分がキャプテンなんですか?』と、聞きに行くこともなかったです。だって、聞きに行ったら、いかにも『イヤだ』という感じじゃないですか。

 ただその頃、僕は自分で何かを変えていかないといけないと感じていたんです。そういう時にキャプテンという大役を任されたのは、逆に自分を変えていくチャンスでもあった。最初はぎこちなさもあったけど、今思えば(キャプテンを)やってよかったなと思っています」

 若きキャプテンは、とにかく練習から責任感を持ってプレーすることを心がけた。チームをまとめることに関しては、中西永輔や坂本蔣貴らがサポートしてくれたり、相談に乗ってくれたりした。

 そうして、日を追うごとに阿部が指示を出す声が増え、その声が大きくなっていった。誰もが「あの、おとなしい阿部が……」と、その変化を感じ取っていた。オシムによる、阿部の才能と性格的なひ弱さを見抜いた、見事な人事戦略だった。

 シーズンが始まって、オシムはさらに”自分流”のチーム作りを推し進めていく。同時に、選手たちから出る不満の声は一段と増した。

 大きな理由のひとつは、終日のオフ日がなくなったことである。それまでは、土曜日に試合があれば、日曜日にクールダウンをして、月曜日はオフだった。だが、オシムは日曜日にも練習して、さらに月曜日の夕方からも練習すると決めたのだ。

 そのため、多くの選手から「練習がハードになるのは仕方がないが、オフがなくなるのはおかしい」という声が上がった。そこで、選手を代表してキャプテンの阿部が、オシムのところに、みんなの声を届けることになった。

「(オシムのところに行くのは)嫌でしたよ。『休みがほしい』とか、一番言いにくいじゃないですか。だから、オシムさんに言いに行く時は、すごく緊張しました」

 ひとりで監督室を訪れた阿部は、オシムに向かって「みんなが『休みがほしい』と言っています」と言った。すると、オシムは鋭い目つきで阿部を見返して、こう言った。

「そんなことを言っているのは誰だ。言っているヤツを連れてこい」

 そもそも阿部自身は「ダメもと」だと思っていたので、いい返事は期待していなかった。想定どおりの回答に、阿部は何も言えず、そのまま引き下がった。そして、オシムの言葉をそのまま選手みんなに伝えた。

 納得できない選手たちは、今度は選手会長の茶野隆行と阿部の2人をオシムのところに行かせた。今度は、オシムは2人を諭すようにこう言った。

「休みから学ぶものは何もない。サッカー選手であるうちは、24時間サッカーのことを考えるべきだ。遊ぶのは(サッカーを)やめてからでもいいだろう。もっとも休みの日も遊びに行くのではなく、翌日から練習が始まることを考え、そのためにどう過ごすべきかを考えるべきだ」

 オシムの言葉は厳しかったが、プロサッカー選手として働いているからには、いいプレーを見せることに責任と義務を負う必要がある、ということを選手に伝えたかったのだ。

 オシムは、選手だけに「24時間サッカー漬け」の日々を課しているわけではなかった。自らも家に帰れば、次の対戦相手の試合映像を見て対策を練り、欧州サッカーの試合映像などを見て戦術・戦略アップを探り、それこそ寝る間を惜しんで、サッカーの探求を重ねていた。

 そのうえで、サテライトやユースの試合も積極的に見に行った。いつしか、そのことが選手全員に知れ渡ると、誰も「休みをくれ」と表立って言わなくなった。

 オフがなくなったのは衝撃的だったが、練習もまた、独特のもので、戸惑う選手が多かった。ビブスのカラーを数種類使用した練習では、カラーによって、パスの順番やどこに動くのか決められ、頭を使うことを常に要求された。また、大学チームとの練習試合などでは、8対11とか、9対11とか、相手よりも少ない人数でプレーすることがあり、かなりの運動量が求められた。

 オシムが掲げていたスローガン「考えて、走るサッカー」を実践するため、選手は日々メニューが異なる練習をこなし、そこで、ひたすら走り、頭をフル回転させ、クタクタになって家に帰った。

「最初は、あまりにも練習がキツくて、『なんなんだ』って思っていたけど、人間って、慣れていくんですよ。次第にハードな練習もこなせるようになり、その練習したことを、試合の中で出せるようになっていく。すると、結果が出るようになり、みんな、自信を持ってプレーできるようになったんです」



オシムの指導のもと、阿部も、チームも変わっていった。photo by Kyodo News

 阿部は「練習が本当に充実していた」と言う。

「オシムさんのトレーニングには、すべてが詰まっていたと思います。次の対戦相手を想定した練習を集中的にやって、さらにジェフがどういうサッカーをしていくのか、というのを反復練習で徹底した。

 練習中、オシムさんからいろいろな指示が出るんですけど、それをそのままやっているだけだと、笛を吹かれて怒られる。選手は『言われたとおりにやったのに……』と思うけど、言われたことをそのままやることを、オシムさんは望んでいない。『自分で考えてプレーしろ』って、いつも言っていましたからね。

 とにかく、ルーティンのような同じ練習がひとつもなくて、ほんと、充実して、楽しかった」

 チームは、オシムのトレーニングによって力をつけ、結果を出していった。ファーストステージでは、最終戦まで優勝争いを演じて、3位になった。

 阿部は、オシムと出会ってわずか半年で、チームの変化と自らの成長を感じ取っていた。

(つづく)