写真:新井宇輝/撮影:佐藤主祥卓球で日本一になった男が、野球ゲーム「パワプロ」で日本一を目指している。男の名は、新井宇輝(たかき)。新井は、人気野球ゲーム「実況パワフルプロ野球」(以下、パワプロ)を使用したプロ野球eスポーツリーグ「eBAS…
写真:新井宇輝/撮影:佐藤主祥
卓球で日本一になった男が、野球ゲーム「パワプロ」で日本一を目指している。
男の名は、新井宇輝(たかき)。
新井は、人気野球ゲーム「実況パワフルプロ野球」(以下、パワプロ)を使用したプロ野球eスポーツリーグ「eBASEBALL プロリーグ」(以下、eBASEBALL)の中日ドラゴンズ球団代表選手だ。
ゲームの腕を競うeスポーツは、今後五輪種目入りも議論されている今最も熱いスポーツの1つだ。もともと卓球選手で、小学校時代に団体で日本一を獲得し、将来を渇望されていた新井はなぜ、卓球からeスポーツへと活躍の舞台を移したのか。
今回は、卓球からeスポーツプレイヤーになるまでの、新井の過酷な卓球人生に迫る。
一人で中国に武者修行!? 五輪「夢」に厳しく育てられた幼少期
写真:過去を語る新井宇輝/撮影:佐藤主祥
はじめに、新井の家系について話を聞いたのだが、筆者は何度も驚かされた。
父親は、2004年アテネ五輪日本代表の新井周、さらに祖父は、元中国北京チーム監督で、2002年世界卓球女子団体で優勝したシンガポール代表監督の周樹森、叔父は現在パラ卓球日本代表監督(車椅子)を務める新井卓将だったのだ。さらに弟の新井元輝は、現在、吉本興業の子役として活躍しているが、もともとは兄同様に小学校時代に全国大会優勝を経験した卓球選手だった。
卓球一家で育った新井は、物心がつく前から自然とラケットを握り、気づけば5歳から母が経営する卓球場に通っていた。現役実業団選手の父からマンツーマンで指導を受け、幼稚園の頃から卓球漬けの毎日を送った。
写真:新井宇輝/撮影:佐藤主祥
「父はめちゃくちゃ厳しかったです。僕、まだ幼稚園児だったのに(笑)。でも他に何かをする選択肢もなかったので、自然と卓球で五輪に出場することが、僕の夢となっていました」と当時を懐かしそうに振り返る。
小学校入学後は両親が立ち上げた大阪の「浜寺アスリート倶楽部」に入り、さらに厳しい指導を受けた。小学2年の時、父から衝撃の“指令”が飛び出した。
「一人で中国に行って1ヶ月間、武者修行してきなさい」。
世界最強の卓球を現地で学んでくるよう突然命じられたのだ。はじめは呆気にとられたが、覚悟を決め、中国に住む祖父母の家に寝泊まりしながら1ヶ月の間、世界レベルの練習に打ち込んだ。
写真:中国で丁寧と練習する新井/提供:新井宇輝
「日本でいうと愛工大名電の中国版みたいな施設に入りました。もう日本とはレベルが全然違いました。ほとんどの選手は自主的に練習を行い、強化指定選手に選ばれている選手は代表のコーチとマンツーマン。『これは強いわけだ』と思いましたね」と卓球帝国・中国の強さを身をもって体験した。
小学3年生で感じた異変…。選手生命を脅かす右肘の怪我との闘い
写真:右肘の怪我について語る新井宇輝/撮影:佐藤主祥
小学3年生の頃、新井は体に“ある違和感”を感じ始める。「右肘の感覚がおかしくて…、少しずつ痛みを覚えるようになっていきました」。
それでも練習を続けていると、いつしか右肘が内出血で真っ青になっていた。病院で検査を受けた結果、「生まれつき右肘の骨がズレていて。腕を振るたびに骨が削れていた」という事実が明らかになった。
五輪出場を夢見る新井にはあまりにも残酷な現実だった。勝つために腕を振れば振るほど、肘が悲鳴をあげる。医師と相談しながら騙し騙し卓球を続けたが、2013年の小学6年時には、すでに右肘は限界に達していた。
写真:浜寺アスリート倶楽部時代の新井/提供:卓球レポート/バタフライ
同年新井は、痛みを我慢しながらプレーし、所属していた浜寺アスリート俱楽部で弟・元輝と共に全国大会に出場した。
順調に勝ち上がり、決勝戦では、4シングル・1ダブルスの3点先取で勝敗を決める試合方式の中、エースの新井はシングルス2試合に出場予定だった。だが「シングルス2試合だと腕がもたない」と、シングルスとダブルスの2試合に出場するオーダーに変更した。これが功を奏し、相手は予想外のオーダーに対応できず、浜寺アスリート俱楽部が初優勝、新井は自身初となる日本一の栄冠を手にした。
写真:優勝した浜寺アスリート倶楽部/提供:卓球レポート/バタフライ
愛工大名電の仲間への「感謝」とともに…走り抜けた卓球人生
小学校卒業後は、愛知の名門・愛工大名電中に進学した。だが、右肘の状態は悪化の一途をたどっており、名門の練習に耐えられる体ではなかった。
学生卓球界トップ校の1つである愛工大名電は、全国から「卓球で生きていく」と決断した猛者たちが集まってくる。新井は満身創痍ながらも心の中で大きな覚悟を決めていた。
「愛工大名電に入るなら、生半可な気持ちではダメ。卓球人生をかけて臨もう」。しかし、その気持ちとは裏腹に右肘は限界を越え、すでに卓球をプレーできる状態ではなかった。迷い抜いた末に、新井は翌年での引退を決断した。
写真:仲間の存在が新井を支えた/撮影:佐藤主祥
「卓球はもうできない…。できないなら愛工大名電にいる意味はない。踏ん切りをつけて、地元の大阪に帰ろう」。中学2年でのシーズンを終えた後、その思いを監督に告げると、「最後までいてほしい」と引き留められた。
「嬉しかったですね。僕はもう選手として貢献できないのに。監督やコーチの心遣いには、今でも本当に感謝しています」とその時の心境を回想する。
元々の実力はもちろん、それ以上に弱音を吐くことなく怪我と戦い続けた。自分よりチームのことを第一に考えてきた。そんな新井の姿を見続けてきた監督やコーチ、選手全員が、掛け替えのないチームメイトとして新井と共に中学3年間を全うしたいと、そう願っていたのだ。
写真:愛工大名電中時代の新井(前列中央)/提供:卓球レポート/バタフライ
その想いを受け取った新井は、以降は裏方に徹し、選手をサポートする側に回った。2015年の中学2年時には、全日本選手権愛知県予選を通過し、全日本卓球選手権ジュニアの部に出場することができた。全日本でのベンチコーチには、監督の勧めで父が入った。今、思えば「卓球選手として最後の思い出を作ってほしい、という監督のお気持ちだと思います。本当にありがたかったです」と監督への感謝の気持ちを述べた。
写真:愛工大名電中時代の新井(右から2人目)/提供:卓球レポート/バタフライ
愛工大名電中で最後まで卓球人生を走り抜けた新井は、中学卒業後、卓球に別れを告げ地元・大阪の高校に進学した。
卓球からeスポーツへ。プロ選手としての“第2章”開幕
写真:eBASEBALLで活躍する新井(右から3番目)/提供:©️Nippon Professional Baseball / ©️Konami Digital Entertainment
「五輪に出場するつもりで幼少期からやっていたので、人生から卓球がなくなってしまった時、もう何をすればいいのかわからなくなりました」。
卓球が人生そのものであり、五輪出場の夢もあった新井の心には、ぽっかりと大きな穴が開いてしまっていた。唯一心の支えは、卓球と同じく幼少期から大好きだったプロ野球だ。プロ野球好きの父から教えてもらったパワプロが、卓球から離れた新井の生きがいになっていた。
そしてパワプロゲーマーの投稿動画を見るようになったのをきっかけに、新井は2018年からNPBとコナミデジタルエンタテインメントが共催するプロ野球のeスポーツリーグ「eBASEBALL プロリーグ」の存在を知った。
「はじめは『へ~こういう世界があるんだ』と思う程度だった」と語るが、プロ野球同様に日本一の座をかけてパワプロで順位を競うリーグに、新井のアスリートとしての血が騒いだ。
昨年の6月、「eBASEBALL 全国中学高校生大会 共同通信デジタル杯」が開催されることを知った新井は、弟・元輝と共に出場した。すると、「ずっとギリギリの勝負でしたが、まさか…という感じで」と快進撃を続け、近畿ブロックを優勝し全国大会進出を果たした。
全国大会では惜しくも敗れたが、プロ指名候補選手を完全に抑えるほどの実力を発揮した。その後プロテストに参加した新井は、中日ドラゴンズから指名を受け、見事eBASEBALL プロプレイヤーとなった。
「プロ野球のドラフト会議の司会を担当する関野浩之さんに名前を呼ばれた瞬間、鳥肌が立ちました。高校生では、佐々木朗希(現・千葉ロッテマリーンズ)と奥川恭伸(現・東京ヤクルトスワローズ)よりも先に指名されたので、これは一生の自慢ですね(笑)」と指名の瞬間を目を輝かせながら振り返った。
新井が指名を受けた中日ドラゴンズは、愛工大名電時代に慣れ親しんだ名古屋のチームということも運命的だ。新井は遊び感覚でプレーしていたパワプロを、プロゲーマーという立場で向き合うことになった。卓球からeBASEBALL界へ。一流アスリートとしての、“第2章”が幕を開けた。
元卓球人が第2の人生で掲げる新たな夢 「eBASEBALL界を盛り上げたい」<新井宇輝・後編>に続く
取材・文:佐藤主祥