【記者嫌いになった2004年】「近鉄バファローズ」という球団がなくなったのは、2004年11月。それからもう15年が過ぎた。バファローズという名称はオリックスに引き継がれ(現オリックス・バファローズ)、かつての所属選手は現役選手として、…

【記者嫌いになった2004年】

「近鉄バファローズ」という球団がなくなったのは、2004年11月。それからもう15年が過ぎた。バファローズという名称はオリックスに引き継がれ(現オリックス・バファローズ)、かつての所属選手は現役選手として、またコーチとして他球団で野球を続けている。2004年に最後の選手会長を務めた礒部公一は、今、何を思うのか。




近鉄が消滅した2004年に選手会長を務めた礒部

 礒部の顔が連日のようにテレビ画面に映されたのは、2004年に球界再編問題が過熱した頃だった。グラウンド外でのさまざまな仕事が、近鉄バファローズの選手会長に降りかかった。

 礒部が当時のことをこう振り返る。

「あの年は、追いかけられすぎて”記者嫌い”になりました。『そっとしておいてくれ』とずっと思っていました」

 礒部はその年のシーズン当初、事の重大さに気づいていなかった。

「ネーミングライツが話題になったときも、オリックスの二軍が『サーパス』になったみたいなものかな、と思っていました。親会社が替わることは、それまでも何度もあったことは知っていましたし」

 しかし話は「身売り」ではなく、「合併」という流れになった。2球団がひとつになれば、当然、選手もスタッフも働き場所を失ってしまう。

「球団がなくなってしまうことは許せなかった。それも、12球団を10球団に減らそうという動きでしたから。僕たち選手に何ができるかわかりませんでしたが、選手会の立場で関西の企業に『買ってもらえませんか』と頭を下げたこともあります。どうにかして、合併だけは避けたかった」

【グラウンドの外で選手会長の仕事をこなす日々】

 シーズン中ではあったが、近鉄の選手会長は騒動の真ん中にいた。日本プロ野球選手会との会合、球団存続の署名活動、プロ野球初のストライキ……。

「僕たちが一番望んだのは、近鉄という球団を残すことでした。もしそのままの形が無理なら、球団ごとどこかに買ってもらいたかった。近鉄の選手、コーチ、裏方さんがそのまま移れるようにと頑張ったんですが、かなわず……しんどかったですね」

 試合中は自分のプレーに集中し、ユニフォームを脱いだあと、選手会長の仕事をこなす。試合中、ベンチ裏で携帯電話のメッセージを確認することもあった。

「とにかく、精神的に疲れました。もし新球団ができたとしても近鉄はバラバラになってしまう……」

 オリックスとの合併が決まり、そのあとは12球団での2リーグ制維持が最大の目的になった。

「新球団の参入を認めてもらうために、オリックスとの合併は妥結しないといけない。ほかに手立てはありませんでした。これ以上、ほかの球団の人たちに迷惑をかけるわけにはいかなった」

 この時期、礒部はいろいろな人に頭を下げて回った。

「選手会ミーティングのとき、ほかの球団の選手会長にも、みんなに頭を下げました。『近鉄のせいで申し訳ありません』と」

 近鉄の選手会長として働き続けた礒部の精神的、肉体的な疲労は相当なものだっただろう。それでも、2004年シーズンは120試合に出場して、打率3割0分9厘、26本塁打、75打点をマークしている。26本塁打は、礒部のキャリアで最高の本数だ。

【「12球団で2リーグ」を守ったことの意味】

 2004年をきっかけに、プロ野球は変わった。今では、札幌、仙台、関東、名古屋、関西、広島、福岡。地域に根差し、愛される球団が増えている。
 
 礒部は言う。

「あのとき、日本のプロ野球がこうなるとは想像できませんでした。12球団で2リーグを存続できたことが大きかったと思います。僕は新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに所属することになりましたが、そこで地域の力を感じました。2005年以降、パ・リーグの球団が頑張ったことが、今につながっています」

 日本プロ野球選手会が、ひとつの組織として最後まで戦ったこと。それによって、両リーグ選手間にあった感情的な垣根を取り払うことができたと、礒部は感じている。

「12球団でプロ野球ができていること、ファンあっての僕たちだということに、本当の意味で気づいたのかもしれませんね」

 30年も前、ドラフトにかかる有力選手の中には「希望は在京セ(・リーグ)」と公言する選手も多かった。巨人、ヤクルト、横浜を差すその言葉を、今ではもう聞くことはない。プロだけでなく、アマチュア選手の意識も変わった。

 地域密着の大切さをプロ野球関係者に知らしめたのは、2005年に誕生した楽天だった。礒部は初代キャプテン、選手会長として、誕生したときからずっとその中心にいた。

「僕は近鉄がオリックスと合併するとき、自分で選んで楽天に行きました。歴史もなく、設備も戦力も十分ではなかった真っ白な状態から、みんなでチームを作っていきました」

 2005年の楽天は、38勝97敗1分、勝率2割8分1厘という苦しい戦いを強いられた。しかし、野村克也監督就任4年目の2009年に2位になると、2013年には星野仙一監督に率いられてリーグ優勝を果たし、日本一に輝いた。

【死ぬほどバットを振らされた理由】

 2005年に打率2割6分4厘、16本塁打、51打点という成績を残した礒部は、それ以降もチームをリードし、2009年に現役を引退。近鉄、楽天での13年間で、通算1225安打、97本塁打、517打点という記録を残した。その後、2017年限りでチームを離れるまではコーチも務めたが、今のプロ野球をどう見ているのか。

「もっと個性のある選手が育ってきてほしい。昔の中村紀洋みたいな豪快な選手、ひと振りで客を呼べるスターに。今のご時世、枠からはみ出す人が出てくるのは難しいかもしれないけど、ファンが見たくなる選手、会いたくなる選手がもっともっといればいいと思います」

 磯部にとって近鉄は故郷であり、プロ野球選手としての原点だ。

「最近、近鉄の先輩から昔の話を聞く機会があって、あらためて西本幸雄さんの存在の大きさを感じました。近鉄という球団の骨格をつくってくださった方ですよね。僕たちは、教え子の梨田昌孝さんや羽田耕一さんを通じて、西本さんの教えを学んだんだと思います。僕たちが若い頃に死ぬほどバットを振らされた理由がわかりました。僕がプロ野球で13年間プレーできたのは、近鉄に昔から伝わる猛練習があったからなんだと」

 かつて、監督としてチームを初優勝に導いた西本が語った「選手をモノにしてやろうと愛情を持って、回り道させないように指導をする。プロ野球の監督やコーチは、そういう指導者の集団でなきゃいかん」という選手育成の思いが、近鉄には残っていた。

 礒部にとって、近鉄魂とは何か。

「近鉄という球団は、グラウンドで結果を残せば何も言われない。プライべートもうるさくないし、僕を自由にさせてくれた。そうして、プロ野球選手の礒部公一を作ってくれました。いろいろな方が、それぞれの言葉で近鉄魂を表現されますが、結局は同じようなことを言っている気がします。巨人軍が『紳士たれ』なら、近鉄はやっぱり『いてまえ』です」

 短所もある無名の選手を猛練習で鍛えあげ、一人前の選手に育てる。そのときに個性を壊さず、武器にしてきた。

「過去の選手を思い浮かべたとき、みなさん、力強くて、うるさいくらいに個性が強くて、ちょっとだけ欠点もあって、どこかで勝負弱くて……不格好かもしれないけど、カッコいい」

 礒部はいま、プロ野球解説者として野球を追う日々を送っている。さまざまなチームを取材しながら、どうしても思い浮かべることがある。

「大阪に球団ができないかなあと思います。近鉄のメンバーだけじゃなくていいんですが、梨田さんが総監督で、野茂英雄さんが監督で、吉井理人さんが投手コーチで、ノリが打撃コーチ……みたいなチームがあったらいい。近鉄に育てられた人間の夢ですね。

 近鉄のDNAを受け継いだ人はたくさんいます。いつか大集合して、また”いてまえ野球”をやりたいですね」