PLAYBACK! オリンピック名勝負------蘇る記憶 第3回東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。◆…

PLAYBACK! オリンピック名勝負------蘇る記憶 第3回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 1992年バルセロナ五輪7日目。7月31日に行なわれた柔道男子71kg級の試合で、観客席から見る古賀稔彦の姿には、これまでの彼になかったような緊張した様子が感じられた。



優勝を決めた瞬間の古賀の表情は、多くの人の記憶に残っている

 初戦の2回戦は、開始20秒に巴投げで一本勝ちした。だが、次の試合では前半に巴投げや返し技で攻め、得意の投げ技を繰り出し始めたのは中盤から。いつもの古賀らしさが少し影を潜めていた。その原因は、彼が左ヒザの靭帯を負傷していたことにあった。

 常に一本を取りに行く柔道と、切れ味鋭い投げ技で高校時代から活躍していた古賀は、86年には世界ジュニアで優勝。一本背負いが得意技だったこともあって、"平成の三四郎"と呼ばれ、期待を集めていた。初出場だった88年ソウル五輪では3回戦で敗退する予想外の結果だったが、翌年の世界選手権で優勝すると、91年世界選手権バルセロナ大会でも危なげなく連覇を決めた。バルセロナ五輪では絶対的な優勝候補になり、24歳という若さで選手団団長を任されるほどの傑出した存在だった。

 だが、古賀はバルセロナ入り後の練習で左ヒザを痛め、3週間の安静が必要と診断されていたのだ。後の診断で「左ヒザ内側側副靭帯損傷」と判明するほどのケガ。78kg級代表の吉田秀彦を相手に乱取りをしていたところ、背負い投げを掛けようとして足が滑り、ヒザを痛めたのだ。ちなみに吉田は、古賀の後輩。古賀は中学入学と同時に佐賀県から上京して柔道塾・講道学舎に入塾し、中・高時代を吉田と共に過ごした。

 練習場のマットが滑りやすかったことが、ケガの原因だった。この負傷以降、試合までの10日間は練習ができなかった。そのため、5kgの減量はほとんど飲まず食わずの状態でやった、という。本番は、いつもよりきつめのテーピングで損傷個所を保護し、痛み止めの注射を打って臨んだ。

 その前日には吉田が78kg級で優勝していた。前年の世界選手権は3位で、男子チーム最年少の22歳。5月31日の大会で左足首を故障した吉田は、本格的な練習を再開できたのがバルセロナ入り直前からだった。さらに、自分との練習中にエースの古賀にケガをさせてしまった、というプレッシャーもあった。

 バルセロナでの日本人選手は、優勝を期待されていた95kg超級の小川直也が2位に終わるなど、それまでの3階級で金メダルがない状況だった。だが、そんな中で吉田は切れ味の鋭い内股を武器に、準決勝では91年世界選手権2位のヨハン・ラーツ(ベルギー)を開始4分39秒に内股で仕留めると、ジェイソン・モリス(アメリカ)と対戦した決勝では3分35秒に内股で勝利。6試合のすべてを一本勝ちで制する強さを見せて、日本男子柔道の危機を救っていたのだ。

 後に古賀は「吉田も絶対に勝つだろうと思っていたから、選手村でテレビを見ていて『ヨシ!』という感じでしたね。でも、その時に彼が『明日、古賀先輩が勝ったら本当に喜べます』と言っていたので。あれで余計に『これは勝たなければいけないな』と思いました。でも僕自身も、ケガをしたあととはいえ、まったく負けるとは思いませんでした。何とかなる、絶対に勝てる、と思っていたんです」と話した。

 普通ならまともに歩くこともできないほどのケガだったが、痛み止めの力も借りた古賀は、試合場に出てきた時は一度も足を引きずることはなかった。4回戦の対ブハラ(ポーランド)戦は、ポイントこそ奪えなかったが、多彩な技で攻めて3対0の旗判定で勝利した。そして、準決勝では開始1分12秒でシュテファン・ドット(ドイツ)に一本背負いを仕掛けた。ヒザを畳につかず、立ったままで投げる彼らしい背負い投げだったが、本来の鋭い切れ味はなかった。それでも相手を背負ってからあきらめずに、粘り切った投げで一本を取り、決勝へ進出した。

 決勝は、前年世界選手権3位の鄭勲(韓国)を4分54秒に体落としで破って勝ち上がってきたハイトシュ・ベルタラン(ハンガリー)が相手。古賀は技を繰り出しながらもなかなか決めきれなかったが、相手の攻めもしっかりとしのぐ展開。結局、時間切れで旗判定にもつれ込んだ。終了の瞬間に古賀は右手で小さくガッツポーズをし、相手のハイトシュも両手でガッツポーズをするきわどい戦いだったが、結果は3対0で古賀の勝利だった。

 赤い旗3本が上がったのを確認した瞬間に、両こぶしを握り締めて喜びを表現した古賀は、畳を降りると、心配そうに見守っていた吉田と涙を流しながら抱き合った。吉田は後に「あの時は本当にうれしくて、自分の優勝以上に涙が出た。決勝は、お守りを握り締めて祈っていました」と振り返った。

 試合後の取材で古賀は、「ケガをしていてもなんとか勝つ方法はないかと、先生方と相談しました。こういう状態では妥協は許されないし、絶対にあきらめないようにしよう、という気持ちを自分と相手にぶつけたかった。決勝は正直言って分が悪いと思ったけれども、審判を見ると自分の気持ちが通じているように感じたので、願うような思いで判定を待っていました」と話した。

 奇跡のような優勝でもあった。だがそれは、「古賀先輩が優勝しなければ、僕の金メダルは半分でしかない」と話した後輩の吉田を思いやる古賀の気持ちと、世界選手権連覇の誇りがもたらした結果だ。さらに言えば、柔道で金4個だった84年ロサンゼルス五輪の再現を期待された88年ソウル五輪で、金メダル0で出番を迎えてプレッシャーに押しつぶされ、3回戦で敗退してしまった屈辱を晴らしたい、という強い気持ちがあったからこそだった。

 バルセロナ五輪の日本の金メダルは柔道の2個と競泳女子200m平泳ぎ・岩崎恭子の3個のみ。ソウル五輪の金4個を下回ったが、古賀の獲得した金メダルは、多くの人がその価値の凄味に感動するものだったと言えるだろう。