田代有三インタビュー(後編)前編から読む>> 2005年、鹿島アントラーズで始まったプロサッカー選手としてのキャリア…
田代有三インタビュー(後編)
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2005年、鹿島アントラーズで始まったプロサッカー選手としてのキャリアは、2011年まで続いた。うち、2010年にはモンテディオ山形に期限付き移籍をしたものの、再び鹿島に戻った2011年にはキャリアハイとなる12ゴールを挙げて、輝きを見せる。それによって”自信”をつかんだ田代有三は、同シーズンを最後に鹿島を離れ、ヴィッセル神戸への完全移籍を果たす。以降のサッカー人生は、2〜3年ごとに目まぐるしく動いた。
「2011年の鹿島で再び自信を取り戻せたなかで、鹿島では周りに引っ張られる立場だった自分が、他のクラブでどんな存在感を示せるのか、チャレンジしたかった」
その考えから、ヴィッセル神戸ではピッチの内外で「自分の考えを周りに伝えること」を意識して過ごし、オフィシャル雑誌の創刊に尽力するなど、いろんなことに目を配りながらサッカーに向き合った。そのことはプレーにも好影響を与え、2012年は序盤こそケガで戦線離脱を余儀なくされたものの、復帰後初のJ1リーグ出場となった第7節の柏レイソル戦で、移籍後初ゴールを決めるなど存在感を示す。結果的にその神戸には、2014年までの3年間在籍した。
「神戸には29歳での移籍でしたが、オーナークラブという環境のなかで、いろんなことがスピーディーに動き、変化していくことを新鮮に感じながら過ごせました。結果を出せなければ、監督も選手もどんどん変わっていったけど、それもクラブのあり方のひとつというか。
いいと思ったものは、一選手の意見でもどんどん取り入れてくれる柔軟性もありましたしね。そのことはサッカーをいろんな角度から考えるきっかけにもなりました。ただ、神戸での3年間をトータルすれば、悔しい思いのほうが色濃く残っている気がします。
とくに、2012年はケガで序盤はプレーできなかったし、戦列に復帰後もなかなか勝てずにJ2降格ですから。期待されて獲得してもらったのに、降格させてしまった事実を、すごく申し訳なく感じていたし、そのことはサッカー人生でも忘れられない、一番悔しい思い出です」
その言葉にもあるように、「サッカーをいろんな角度から考えるきっかけになった」からか、神戸での3年目頃から、田代は”将来”を考えることが増えた。かねてから「いつか」と思っていた海外でのプレーを意識するようになったのもこの頃だ。
それもあって2015年、神戸からの契約延長を断ってアメリカに渡り、1カ月半の間にメジャーリーグサッカーに属する2チームでトライアルを受けている。残念ながら、このときは話がまとまらず、セレッソ大阪への移籍を決めたが、このとき過ごしたアメリカでの時間は、のちのオーストラリアでのプレーにつながった。
「セレッソでの2年間も、充実した時間でした。若くていい選手が多く、その若さに将来性を感じながら、僕自身もサッカーを楽しめたし、2年目にはJ1昇格プレイオフを制してJ1昇格の喜びを味わえたのも、忘れられない思い出です。
ただ、移籍を経験するほど、そんなふうに自分の考え方や経験にも広がりが持てると実感していただけに、”海外”に対する思いは膨らんでいく一方でした。それに、セレッソへの加入前に渡ったアメリカでの1カ月半の間に、移籍は実現しなかったとはいえ、アメリカのスポーツのエンターテイメント性を肌身で感じ、また、いろんな人に会って話を聞くうちに、アメリカのスポーツビジネスにも興味を持ったのも大きかった。
そこで、セレッソでの2年目を終えたあとに、もう一度、チャレンジしようと考え、いろんな可能性を探りました。結果、親身になってくださった方のサポートを受け、(オーストラリアの)ウロンゴン・ウルブスという、Aリーグのひとつ下のリーグ(NPL)に属するチームでプレーすることになりました」
ウロンゴン・ウルブスでの2年間は、プレーヤーとしても、次の人生を探るうえでも充実した時間になった。
チームでは中心選手として活躍しながら、世界で上位2%に入る大学として知られるウロンゴン大学のアンバサダーにも就任。クラブオーナーである鉄道会社の代表取締役社長、トーリ氏をはじめ、多くの人とコミュニケーションの輪を広げていく。
トップリーグであるAリーグには10チームしか所属していないものの、NPLは各州に、それも1〜3部まであると知ったのも、現地に入ってから。さらに言えば、その下の地域リーグにも想像を遥かに超えるチーム数が属しており、あらためてオーストラリアのサッカー熱に驚かされた。
「NPLでプレーする日本人選手は自分だけだと思っていたら7、8人いて、さらに僕の住んでいる地域のイラワナリーグには、20人前後の日本人選手がプレーしている。しかも、雇用形態も決して悪くないというのも現地で知りました」
そうした環境のもとで、家族とともに新しい世界を楽しみながら、スポーツビジネスの持つ可能性を知ったからだろう。そこに、自身のセカンドキャリアを想像できたことで、田代は、現役生活に別れを告げた。

現役引退を発表した田代有三
「鹿島を離れてからの7年間では、『自分が周りを引っ張る立場になろう』と思ってやってきましたが、そのときに気づいたのは、僕には鹿島の先輩たちのような、『俺についてこい』的な自分を見せられるだけの実力も、人としてのキャパシティもなかったということ。それが、日本代表に定着できなかった理由だと思います。
でも、そこに気づけたのは、今後のキャリアに向かううえではすごく大きかった。それに、サッカー人生をトータルして振り返っても、悔しさより、うれしさのほうが多いサッカー人生でしたから。
もちろんそのつど、所属したチームで試合に出られなかった悔しさとか、結果を残せなかった歯がゆさはありましたよ。毎年1度は大ケガに見舞われたこともそうですしね。でも、そういった悔しさは瞬間的な感情で、トータルして考えれば、うれしかったことのほうがはるかに多い。
それはおそらく、契約してくれたすべてのクラブ、可愛がってくれた先輩、同じ時間を全力で共有できた仲間、応援してくれるファン、サポーター、そして側でずっと支えてくれた家族がいたから。もっと遡(さかのぼ)れば、中学、高校、大学といろんな先生にお世話になって、その導きによってたくさんのいい出会いに恵まれて、”プロサッカー選手”という職業を14年間も続けられた。
こんなふうに、いろんな人に応援してもらえる仕事に就くことはもうないかもな、って考えると少し寂しい気もするけど、これからはセカンドキャリアに自分らしい道を見つけ、現役選手に対しても『引退してもこんなことができるんだよ』と、勇気づけられるような姿を示していきたいと思っています」
思いの丈を一気に話し終え、再びセカンドキャリアに抱く夢を語り始めた田代が、別れ際に「それにしても……」と切り出す。
「自分でも驚いているんですよ。こんなにも未練なく、サッカーをやめられるとは思わなかったなって。今のところは、まったくボールを蹴りたいとは思わないですしね(笑)。それよりも、今はこれから自分に何ができるのかが楽しみで仕方がない」
未練なくサッカーをやめるのではなく、未練なくサッカーをやめられるくらいに全うできた、現役生活。そこで手に入れた多くの財産を手に、田代有三は、新たなキャリアをスタートさせる。
(おわり)