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証言で明かす荒木大輔がいた1980年の高校野球

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証言4 佐藤孝治

 1980年の夏、早稲田実業の背番号11をつけた1年生エース・荒木大輔を支えたのは、当時3年生だった捕手の佐藤孝治(こうじ)だ。

 東東京大会が始まったときには三塁手の控えだった荒木が、わずか2カ月後に甲子園の準優勝投手になることができたのはなぜなのか。東東京大会から甲子園決勝まで、すべての試合でリードした”女房役”がその秘密を明かす。




1980年の夏の甲子園で熱投する荒木大輔

急造の1年生エースを支えた早実の伝統

 大輔がマウンドに上がることになったのはアクシデントがあったからです。2年生でエースの芳賀誠がバント練習でふくらはぎをケガしたので、その代役として。ひどい言い方をすれば、「しょうがないから、大輔でも投げさせるか」という感じでした。

 大輔は控えの三塁手としてベンチに入っていましたけど、それほど期待していませんでした。実際に、決勝の二松学舎大附属には4点も取られましたしね。関係者も対戦相手も「このピッチャーはすごい」とは思っていなかったと思う。僕自身もそう。けっして圧倒的な力があったわけではありませんでした。

 1980年の早稲田実業はチームとしての評価が低くて、東京の優勝候補には挙がっていなかった。春のセンバツで準優勝した帝京には伊東昭光(元ヤクルトスワローズ)がいて、二松学舎にも西尾利春(元阪急ブレーブス)や白幡隆宗(元西武ライオンズ)という実力のある選手がいましたから。

 新聞や雑誌の優勝予想の記事では、「ほかには早実も」程度の扱いでした。実績のある高校だから、「学校名だけでも入れておくか」くらいの感じで、注目選手としては誰も取り上げられなかった。

 早稲田実業は1977年春から1978年夏まで4季連続で甲子園出場を果たしていた。そのなかには荒木大輔の兄、健二がいた。しかし、この年は下馬評に上がらず、優勝候補と考える人は少なかった。

 だが、準々決勝で岩倉に3-0、準決勝で帝京を4-0で下し決勝進出。決勝では二松学舎に先制されながらも終盤に追いつき、10-4で優勝を決めた。

 周囲からの期待も高くなかったし、僕たちも「何が何でも甲子園に行くぞ」という気持ちではなかった。エースの芳賀が故障してしまったということもあって、捨て身だったし、怖いものは何もなかった。「勝たなきゃいけない」というプレッシャーがなかったのがよかったのかもしれませんね。あれよ、あれよという感じで勝ち上がっていった。

 でも、岩倉と帝京を完封したことよりも、決勝で大輔がパカパカ打たれたことのほうが強く印象に残っています。東東京大会の時点では、大輔はその程度のピッチャーでした。

 そのときの大輔は、5月に16歳になったばかりの1年生。それも急造ピッチャーでしたから、キャッチャーとしては「思い切って投げてこい」と言うくらいで、作戦の立てようがなかった。コントロールはよかったけど、球種はストレートとカーブしかないし。

 ただ、メンタル部分は心配していませんでした。ピッチャーとしては不感症だったんじゃないかな(笑)。ピリピリした感じはなくて、どちらかと言うとぼーっとしているように見えました。目立ってやろうとか、かっこつけるようなところは全然なくて、堂々としているのともちょっと違った。まあ、場慣れしているというのはあったでしょうね。

 もちろん、リトルリーグと高校野球では注目のされ方が全然違う。高校に入ったばかりで東東京大会に投げてみたら、全部勝った。応援団もいて、報道もされて、いい心地になったんでしょう。

 東東京大会の王者として甲子園に進んだ早実だったが、ここでも騒がれることはなかった。センバツ優勝の高知商業(高知)、プロ注目のサウスポー・愛甲猛がいる横浜(神奈川)、前年に春夏連覇を果たした箕島(和歌山)などが優勝候補に挙げられていた。

 早実の初戦の相手は強打の北陽(大阪)。49の出場校のなかで地方予選の最高打率をマークしていた強力打線を、荒木は1安打に抑えて勝利した。これが伝説の始まりだった。

 甲子園に行ってから、突然、大輔がすごいピッチャーになったわけではありません。
いきなりストレートが5キロも10キロも速くなったわけでもない。球種もストレートとカーブだけ。北陽打線は強力だったから、普通なら、ストレートもカーブも外角低めに投げようとするでしょう。でも、大会で一番打率のいいチームに対してそのやり方が通用するとは思えなかった。

 当時の高校野球には打率5割を超える選手がたくさんいましたが、ピッチャーがアウトコースを狙って真ん中に入ったボールを打つことが多かったように思います。インコースの際どいコースを打つ技術を持ったバッターは少なかった。大輔のボールはナチュラルにシュートしていたので、右バッターのインコースに投げさせました。ストレートがシュート回転するのはよくないと言われていたんですが、それを逆手にとった形ですね。

 大輔は度胸があってコントロールもいいから、インコースを投げることを怖がらない。スピード自体は速くなかったので、バッターが打ち気でくる。でも、低めのボールは落ちるし、高めのボールはシュッと伸びる。詰まった打球は内野ゴロになりました。北陽戦は27アウトのうち、内野ゴロは16本、セカンドゴロが6本ですか。二塁手の小沢章一(のりかず)が守備位置を変えながらうまく守ってくれました。当時は今ほど左バッターが多くなかったこともあって、この配球がはまりました。

 基本的にはインコースのストレートと外角低めのカーブ。バッターが強振しそうなときにはインコース、コツコツ当ててくるときには外角にカーブを投げさせました。決勝戦までこのパターンです。球数が100球前後で済んだのは、大輔のコントロールがよかったから。ストライクゾーン近くのボールでもかなり打ち取っているはずです。

 荒木は決勝まで5試合44回3分の1を投げて1点も取られなかった。早実は先に点を取って主導権を握り、それを守り切る手堅い野球で勝ち上がっていった。決勝戦の初回を0点で切り抜ければ、夏の甲子園の無失点記録を1年生ピッチャーが塗り替えることになっていた。

 決勝の横浜戦で何が違ったかと言われても、基本的には同じやり方、同じ気持ちで臨んだつもりでした。でも、試合が終わってから振り返ってみたら、ちょっと違っていたかな。

 早実は東東京大会からずっと、「甲子園に出なきゃとか、優勝しなきゃいけない」といった余計なプレッシャーとは無縁のチームで、目の前の試合に勝つことだけを考えていた。でも、甲子園の決勝までくると、どうしても優勝がちらついてしまった。決勝は、勝っても負けてもそこで終わり。「だったら勝とうぜ」という気負いがあったのかもしれない。そのせいかどうかわかりませんが、ミスがいくつも出てしまいました。

 僕たちが初回に1点を取ったのに、すぐに2点取り返されて、最後までペースを握られたままでした。横浜はもともと優勝候補で、僕たちは無欲で勝ち進んだチーム。くじ運に恵まれた部分もありましたから。初めて勝ちを意識して硬くなったのか、欲が出たのか、それはわかりません。よそ行きの戦いになってしまいました。

 大輔自身、それまでと変わるところはありませんでした。疲れた様子はありましたが、疲労のせいでボークをしたわけじゃない。初回を0点で抑えれば新記録を達成することはわかっていましたが、特に意識はしませんでした。僕たちが1点取ったので、いつも通りの試合運びだと思ったんですが、1アウト1、3塁から4番打者の片平保彦(元横浜大洋ホエールズ)にヒットを打たれて失点。それも普段の小沢なら捕れた打球でした。

 ダブルプレーで終わって初回を0点に抑えていれば、そのあとはどうなったかわからない。結局、大輔は5点を取られて、3回でマウンドから降りました。どこが悪いということはなかったけど、キャッチャーの感覚で言うと、回転数がいつもとは違ったかもしれない。

 終わってみれば4-6というスコアでしたが、点差以上の実力差があったように感じました。僕たち3年生は初めて甲子園で試合をしたんですが、下馬評にも上がらなかったチームが決勝まで戦えて悔いはなかった。自分たちが想定していた以上の高校野球ができました。大輔と、あの夏の甲子園について話したことはあまりないですね。「よく頑張ったよなあ」くらいで。

 高校野球はトーナメント式なので、甲子園まで勝ち上がるのは本当に大変。いくら実力があっても難しい。大輔が5回連続で出場できたことは本当にすごいと思う。一方で、「1年生の夏に準優勝したんだから、1回くらい全国優勝するだろう」という声もあったから、本人は悔しい思いがあったでしょうね。

 この年だけじゃなくて、早実の野球部では、1年の夏からベンチに入る選手が多いんです。当然、3年生でもベンチに入れない選手が大勢いて、甲子園の宿舎では洗濯や準備をする。これが早実の伝統ですね。

「1年生のくせに」なんて思っている選手はいません。1年生が活躍してくれた裏には、マネジャーや控えの上級生たちの働きがありました。今でも僕たちの学年の野球部員が集まることはありますが、レギュラー、レギュラー以外、マネジャー、ベンチに入れなかった選手の間には、何の隔たりもありません。当時も仲がよかったし、その関係は変わらない。もちろん、下級生に対する教育みたいなものはありましたが。

 試合になれば、1年生も2年生も3年生もない。3年生だから温情でベンチに入れるということもありませんでした。チームとして勝つことがすべてではないけれど、勝つという目標に向かってベストの布陣を組む。

 1年生で試合に出ている選手は活躍することが仕事。ベンチに入っていない3年生は練習の手伝いや選手を激励するのが仕事。それぞれに役割を全員がまっとうするのが早実の伝統であり、強さなのかもしれませんね。