私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第6回W杯で輝けなかった「エース」の本音~中村俊輔(2)第1回から読む>> 2010年南アフリカW杯に向けて、新しいスタートを切った日本代表はイビツァ・オシム監督が指揮を執った。 中村俊輔は、中田…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第6回
W杯で輝けなかった「エース」の本音~中村俊輔(2)

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 2010年南アフリカW杯に向けて、新しいスタートを切った日本代表はイビツァ・オシム監督が指揮を執った。

 中村俊輔は、中田英寿引退後の代表チームにあって、中心選手になっていた。その存在感は、ジーコジャパン時代の中田のような、絶対的なものだった。

 2007年11月、オシム監督が脳梗塞で倒れると、岡田武史監督が代表の指揮官に就任した。

 W杯予選が間近に迫る代表合宿において、岡田監督は中村、中澤佑二、遠藤保仁の3人を部屋に呼んで、「おまえたち3人が(チームの)中心になってやってくれ」と伝えた。中澤がキャプテンになり、経験豊富で試合を組み立てる力がある中村と遠藤がチームのけん引役を任されたのだ。

「代表のために、代表が強くなるために『何かできないかな』っていう意識が強かった」

 中村は相当な覚悟で、岡田監督が投げた”ボール”を受け取った。

 岡田監督は、前から積極的にプレスをかけてボールを奪い、常にボールを保持する攻撃的なサッカーを推進していた。中村と遠藤は、そのサッカーにおける攻撃の軸となった。

 一方で、チームは世代交代が進み、新しい選手がどんどん入ってきていた。田中マルクス闘莉王、松井大輔、大久保嘉人、今野泰幸、長谷部誠、本田圭佑、長友佑都、内田篤人らだ。

 若い選手たちは野心に燃え、ポジションを争う意欲を隠そうとしなかった。

 当時、中村に最も牙をむいてきたのが、本田だった。オランダのVVVフェンロでプレーしており、まだブレイク前夜だったが、日本の”エース”からポジションを奪うべく、果敢に挑んできた。

「本田は、他の選手と違っていたね」



親善試合のオランダ戦で、FKのキッカーを巡って

「衝突」した中村俊輔(左)と本田圭佑(中央)

 世間にも話題となったのは、アジア最終予選を突破したあとに行なわれたオランダ遠征のときだ(2009年9月)。1試合目のオランダ代表との試合で、FKのキッカーをお互いに譲らずに衝突したのだ。以来、中村と本田は「ライバル」と書き立てられた。

 スコットランドのセルティック所属時、欧州チャンピオンズリーグでマンチェスター・ユナイテッドを震撼させた日本代表の「10番」と、オランダ2部リーグにいたチームを1部昇格に導いた日本の「ニューカマー」との対立図式は、メディアにとって格好のネタとなった。

 中村は、誰かと比較されたり、誰かとライバルという取り上げられ方をされたりしたのは、本田が初めてではない。ジーコジャパン時代は、同じく攻撃的な選手である中田と比較されていた。

「(メディアでは)ヒデさんとも比較されたけど、どうこうっていうのはなかった。ジーコのときのヒデさんは、特別な存在。(中田が所属していた)当時のローマは、今で言うバルサとかレアルみたいな感じで、そこでプレーできる力と経験を持つ選手は、日本代表には他にいなかった。

 たぶん、代表でプレーするときに(中田が)感じる、俺らへの物足りなさやストレスはすごかったと思う。ヒデさんは徐々に俺たちのレベルに寄ってきてくれたけど、ヒデさんが(本来の)ヒデさんでいられるレベルの選手が(代表には)ほとんどいなかった。

 しかも、本当ならヒデさんがトップ下をやるべきなのに、俺みたいなちょこまかした選手がトップ下をやって、ヒデさんはボランチをやった。同じレベルではなくて、本当に申し訳ないって思っていた」

 ジーコ監督にとって、中村と中田は別格の存在だった。両者を生かすためには、中村を前に出して攻撃に専念させ、中田をボランチへ配するしか方法がなかったのだ。

「フィジカルの強弱などでも判断する監督なら、俺をサブにして、ヒデさんをトップ下に置いたと思う。周囲からは『ジーコの息子』とか『ジーコに気に入られた』とか言われたけど、そういう感覚はなかった。ただ、代表に呼ばれたら、どんな試合にも行った。ジーコに対して、というよりも、日本代表に対する忠誠心というか気持ちを、ジーコに感じてもらえていたんだと思う。俺、常に代表が一番だから」

 中村は、「(自分と中田とは)世界レベルでのプレーや経験の差が違う」と自らの胸の内で消化できていた。ゆえに、メディアなどで中田と比較され、あれこれ言われても、ほとんど気にはならなかったし、代表でのプレーに影響することもなかった。中田に追いつくべく、自らのレベルを上げ、安定したプレーをしたい、ということに集中していた。

 だが、本田は違った。

 中村が本田の標的にされたのは、チームの中心で、シンボルだからだ。野生動物の世界であれば、グループのボスを倒せば、倒した者が新しいボスになる。本田の考えは、それに近かったのではないだろうか。

 もちろんサッカーの世界でも、サブの選手がレギュラー選手を追い落とそうと必死になって、競争を挑むのは当たり前のこと。中村も、そういう経験は何度もしてきた。しかし本田は、これまでに同様の争いを繰り広げてきた選手たちとは明らかに違った。標的とした中村を、追い落とすことに徹底していたのだ。

 中村と同じピッチに立ったときは、ほとんど絡まない。対戦する相手以上に、中村を敵視していた。まさに”俊輔狩り”である。

「世界にも『成り上がってやろう』という選手はたくさんいるし、そういう選手を何人も見てきたけど、あんなにギラギラしている選手を見るのは久しぶりだった」

 そうした状況の中、ふたりを巡る報道はどんどん過熱していった。

 同じポジションを争い、ともに左利きでFKに自信を持つ。不甲斐ない試合が続いて、今ひとつ盛り上がりに欠けていた日本代表にあって、『中村vs本田』は最も注目度の高い”ホットな”ニュースだった。

 とはいえ、岡田監督の中村に対する信頼は厚く、しばらくはチーム内のヒエラルキーに変化はなかった。少なくともW杯の直前までは、ジーコジャパン以上に中村の存在は大きく、「中村のチーム」と言っても過言ではなかった。

 その間、中村はさらに「うまくなるために」大きな決断を下している。

 2009年6月、4シーズン戦ったセルティックからスペイン1部リーグのエスパニョールへの移籍を決めた。

「『セルティックに居すぎかな』というのは感じていたけど、ストラカン監督との関係はよかったし、家族も(スコットランドで)安定して暮らしができていた。それに、他からオファーがあっても、会長が『ナカは何億積まれても出さない』と言ってくれたので、それなら『ここにいよう』ってなる。

 そうした環境にあって、『どうすればうまくなるのか』ということが自分の中でぼやけてしまった。挑戦する意識や向上心がなくなったわけじゃないけど、(所属チームを)動かなくてもいいと思ってしまった。

 だけど今思えば、あのときの、自分の(置かれた)状況や代表のことを考えると、もっと前に挑戦するのもありだったんじゃないかって思う。実際、スペインに行って刺激になった。『スペインは強い』『トップ下でやりたいな』って思った。試合には出られなかったけど、エスパニョールに行った後悔はまったくなかったからね」

 しかし結局、エスパニョールで試合に出場できない状況を憂慮して2010年、中村は横浜F・マリノスに復帰した。

 ところが、実戦から離れていた影響か、中村のコンディションはなかなか上がってこなかった。W杯本番を2カ月後に控えた4月7日、中村を中心とする日本代表も、セルビア代表の「二軍」と言われた相手に0-3と完敗を喫してしまった。

 そして、中村がチーム内における変化の”風”を感じたのは、2010年5月24日、W杯本番前の壮行試合、日韓戦のあとだった。日本は韓国のフィジカルの強さに圧倒されて、0-2と完敗。スタジアムに失望の空気が広がった。

 試合後、中村は岡田監督から声をかけられた。指揮官が冷めた表情で発したひと言を受けて、中村は悟ったという。

「俺、終わったな……」

(つづく)