腕っぷしにものを言わせ、ボールをピンポン玉のようにスタンドまで運んだカブレラ氏。その異彩ぶりは日本の野球ファンを唸らせた…

腕っぷしにものを言わせ、ボールをピンポン玉のようにスタンドまで運んだカブレラ氏。その異彩ぶりは日本の野球ファンを唸らせた(C)産経新聞社

 記録よりも記憶に残る助っ人は、チャンスを求めて海を越えた。

 現地時間7月17日、ベネズエラ人ジャーナリストのビクトル・ボッコーネ氏と、元メジャーリーガーのオマー・ビスケル氏がホストを務めるポッドキャスト番組「Desde El Clubhouse」に元西武の主砲アレックス・カブレラ氏が出演。自身がキャリアの最盛期を送った日本での思い出を赤裸々に語った。

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 ド迫力のパワーがファンを魅了した。2001年に西武に入団したカブレラ氏は、1年目から49本塁打を放つと、2年目には当時の日本タイ記録となるシーズン55本塁打をマーク。タフィ・ローズ(当時近鉄)との一進一退の本塁打王争いは球界を大いに賑わせた。

 分厚い腕と胸板、そして強靭な足腰を誇ったカブレラ氏。背中を後方に反る独特の構えと豪快なスイングが異彩を放った一方で、確実性も高かった。実際、西武、オリックス、ソフトバンクで過ごしたNPBでの12年間で、通算打率.303、同357本塁打、同OPS.990の好成績を収めた。

 そんなカブレラ氏だが、当初はMLBでのキャリアを模索していた。1999年のオフにダイヤモンドバックスと契約を交わしていた同氏は、同球団3Aで打率.282、長打率.526、OPS.867のハイアベレージをマーク。夢のメジャー昇格を果たす可能性もあったという。

 しかし、当時のダイヤモンドバックスはコンテンダー球団として、タイトル獲得に奔走。2000年のオフにはカブスから一塁手を務める強打者マーク・グレースを獲得し、カブレラ氏が昇格する芽はなくなっていた。

 そうした中で球団から持ち掛けられたのが、日本行きだったという。当時を「彼らは私に『機会があったとして日本でプレーしたいか?』と尋ねてきた」と振り返るカブレラ氏は、自身の胸中に想いを馳せる。

「当時の私は日本に行けば、大金を稼げるだろうと考えていた。だから『どこでプレーする機会を与えられるとしても、そこに俺は行きますよ』と答えたんだ」

 実際、西武から提示された金額は、「大金を稼げる」と踏んでいたカブレラ氏の想像を上回るものだった。レジェンド助っ人は、こうも続けている。

「当時、私に出されたのは、サインボーナスが50万ドルで、そこに契約金150万ドルと、500万ドルの出来高ボーナスが付帯したものだった。私は『日本で自分が稼げるのはせいぜい5万ドルくらいか』と思っていたから、提示額を見た瞬間に、『これは行かなきゃダメだ。もちろん行く。迷わないよ。すぐにでも行くよ』と言ったね(笑)」

 日本で“ジャパニーズドリーム”を掴んだカブレラ氏。与えられたチャンスをモノにした名助っ人の輝きは今も色褪せない。

[文/構成:ココカラネクスト編集部]

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