FAで中日に移籍した川崎憲次郎氏は星野監督もつけた「20」を背負った 2000年オフにヤクルトからフリーエージェント(F…

FAで中日に移籍した川崎憲次郎氏は星野監督もつけた「20」を背負った

 2000年オフにヤクルトからフリーエージェント(FA)宣言した川崎憲次郎氏は、星野仙一監督の熱い誘いもあり中日に移籍した。巨人戦通算29勝の“Gキラー”加入に、名古屋の街は大いに沸いた。固辞したはずのエースナンバー「20」を背負うことになったが、右肩の故障で登板なしと期待に応えられず。2001年限りで星野監督はドラゴンズのユニホームを脱いだ。

 中日入団の決め手は、星野監督からの「巨人だけは倒してくれ」という言葉だった。川崎氏にとって巨人は幼少期から大ファンだった球団だが、プロ入り後は“キラー”として立ちはだかった。ヤクルト時代は通算88勝中、29勝が巨人戦。星野氏は35勝を挙げており、目の前でその記録を抜くことを目標に掲げた。

 当時は巨人が“1強”とされた時代。そこに強さを誇った秘訣には「巨人をどこが倒すかという図式だったから、俺がその一角になれればと思っていたのと、地元(大分県)のテレビ放送が巨人戦だけだったから、田舎で応援してくれるのはそこしかない。あとは巨人戦の勝利給は倍くらいだった。簡単には勝てないけど、モチベーションは高かったですね」と明かす。

 悩みに悩んで決めた中日入り。球団幹部から「20番をあげるから」という話があったが「名古屋の中ではすごい番号だから、『そんな重い番号はいりません』と言いました」。杉下茂氏や権藤博氏が背負い、星野監督も1971年から1982年までつけていたエースナンバーだ。丁寧に固辞して、入団会見の日を迎えた。控室に行くと、自身のユニホームには「20」と記されていた。「マジで!? 本当に20なんだ……」と重大さを悟った。

「『すみませんでした』と謝ったら、『肩は仕方ないな』と」

 アットホームで担当記者も少なめだったヤクルトから一転、華々しくホテルで豪華な入団会見が行われて出迎えられた。「盛り上げ方が半端ないし、どこに行っても人が多かった。名古屋だと声を掛けられたりもしたし」というほどの注目度だった。

 結局は右肩の故障に泣き、あと6勝だった星野監督の巨人戦勝利記録を抜くどころか、2001年は実戦登板することもできなかった。中日は5位に沈み、星野監督は同年辞任した。2軍暮らしだったため直接会うことはできなかったが、現役引退後に野球解説者として、楽天監督に就任した星野氏とグラウンドで顔を合わせる機会があった。

「『すみませんでした』と謝ったら、『肩は仕方ないな』と慰めてもらった。電話は入れていたけれど、数年越しに直接言えてスッキリしました。誘ってもらったのに何もできなかったけど、そのときは笑顔で話をしてくれましたね」。亡き闘将の姿を思い出すかのように、言葉を紡いだ。(町田利衣 / Rie Machida)