川崎憲次郎氏は2000年オフにFA宣言、ヤクルトから中日に移籍した 1998年にヤクルトで最多勝と沢村賞に輝いた川崎憲次…
川崎憲次郎氏は2000年オフにFA宣言、ヤクルトから中日に移籍した
1998年にヤクルトで最多勝と沢村賞に輝いた川崎憲次郎氏は2000年オフ、フリーエージェント(FA)を宣言した。当初は残留を視野に「自分の評価を聞きたい」という思いだったが、古巣からの誠意は示されなかった。夢だったメジャー移籍と熟考の末に選んだのは、中日。決め手となったのは星野仙一監督の一言だった。
憧れの思いは1998年に動き出していた。目標だった最多勝のタイトルを獲得したことで上のレベルを見た。また日米野球に出場した際、ランディ・ジョンソンから「ダイヤモンドバックスに来いよ」と声をかけられた。「軽い感じで、ですよ。でもそういうのもあってメジャーもいいなと。世界のステージで戦ってみたい気持ちがありました」と川崎氏は当時の思いを明かす。
FA宣言すると、中日がすぐに獲得の意思を示してくれた。交渉解禁即、年俸2億円の4年契約(4年目はオプション)という条件も提示された。レッドソックスは年俸3億円の2年契約。それを新聞で見た中日サイドは「うちも同じだけ(年俸を)出す」とまで言ってくれた。しかしヤクルトからはしばらく連絡がなく、不信感が募った。
「お金がないのは知っているからそこは求めるところではなかった。ただ誠意が見えなかった。金はなくても誠意を見せてくれればいいと思っていたんですが……。12年間も世話になって、最初はそんなに出ていくつもりもなかったけど、じゃあもういいかなと。早い段階でヤクルトはなくなり、2球団に絞りました」
中日かRソックスか…「どっちもいい話。自分で道を選ぶって難しい」
とはいえ、ここからが大変だった。「どっちもいい話だし、自分で道を選ぶって難しいんですよ。1週間くらい、ほぼ眠れず悩んだかな」。最終的には星野監督からもらった「巨人だけは倒してくれ」という熱い言葉が決め手となった。川崎氏は“Gキラー”と呼ばれて、88勝のうち29勝を巨人から挙げていた。星野監督は巨人戦通算35勝。「俺と方向性は一緒だなと。星野さんの目の前で、巨人戦の通算勝利数を抜きたいと思ったんです」と名古屋行きを決めた。
子どもが生まれたばかりで米国生活に不安があったことや、当時の日本人メジャーリーガは西海岸球団の所属ばかりで東海岸の情報があまりなかったことなど不安要素が多かったこともあった。仮にタイミングが合えば、あのとき行っていたらと頭をよぎることはあるのだろうか――。
「シュート一本だったから、シュートがどこまで通用していたか、それだけ。行くと決めていれば自信を持って行っていただろうし。ただ……どっちに行っても何かは起きる。いいのは最初だけで、落とし穴は必ずあると思うので」。2001年以降に見舞われた苦悩を思い出すかのように、川崎氏はそうつぶやいた。(町田利衣 / Rie Machida)