サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム。今回のテーマは、世界に知られる前の「将軍」と「イレブン」との予期せぬ遭遇。

■フランスサッカー「暗黒の時代」

 パリに近づいた頃、少し前に降りた人が残していった新聞に目をやっていた倉井カメラマンが、「今夜フランス代表の試合がある」と言い出した。パルクデプランスで午後8時キックオフ。相手は西ドイツ・チャンピオンのボルシア・メンヘングラッドバッハであるという。

 私の反応といえば、とても鈍かった。「へえ」程度だった。フランスは1958年のワールドカップで3位になったことがあったが、その後、完全な停滞期に入り、1962年は欧州予選で敗退、66年は出場したもののグループステージ1分け2敗で最下位。ワールドカップが日本人の目に入ってきた70年と74年大会は連続して欧州予選敗退だった。

 クラブチームの成績もかんばしくなかった。何より、「首都パリに1部リーグチームがない」という状況から、サッカーに対するフランス人の関心も薄いと聞いていた。フランスのサッカーにとって「暗黒の時代」と言ってよかった。だからこそ、一国の代表チームが、隣の国のクラブチームと親善試合をするというハメになっているのだ(日本代表も、1991年まで親善試合の相手は、欧州や南米ならクラブチームばかりだった)。

 だから「取材に行こう」と倉井カメラマンが言ったときには正直、驚いた。キックオフまであと5時間ぐらいだ。そもそも、試合の当日になって取材パスなど出るの?

■「21歳」のミッシェル・プラティニ

 パリに着くと、倉井カメラマンは迷うことなく地下鉄に乗った。連れていかれたのは、有名スポーツ紙『レキップ』の一角にあった「パリ・スポーツプレス協会」だった。倉井カメラマンは窓口の女性とごちゃごちゃ話していたが、やがて自分の分を含め、3人分の取材パスを持ってきた。私たちは予約してあった小さなホテルに荷物を放り込むと、すぐにパルクデプランスに向かった。

 当日に申請して取材パスが出るのである。どうせスタジアムもガラガラに違いない―。その予想は見事に裏切られた。パルクデプランスはぎっしりと満員になり、大いに盛り上がっていたのである。

 フランス代表は若かった。21歳のミッシェル・プラティニと同年代の選手がズラリと並び、ただひとり、28歳のジャンミシェル・ラルケがキャプテンマークを巻いて大ベテランの風格を見せ、中盤に君臨していた。16人のうち8人は、力をつけつつあったASサンテチエンヌ所属の選手たちだった。なかでもプラティニと同じ21歳のFWドミニク・ロシュトーのスピードに乗ったプレーは目を引いた。

 フランスはこの前に行われたモントリオール・オリンピックに出場し、3得点を挙げたプラティニの活躍で準々決勝に進出していた。オリンピックのサッカーがまだ「アマチュア」だけの時代である。「ナショナル・チーム」を送り込んだ東欧勢の前には歯が立たなかったが、若い代表の活躍は久々にフランス国民の関心をサッカーに向けさせていた。そのシンボルがプラティニだった。

■「分からなかった」ルネッサンスの兆し

 パルクデプランスにボルシア・メンヘングラッドバッハを迎えた試合、フランスは目の覚めるような攻撃を見せ、5-0で完勝した。ボルシアには「世界チャンピオン」の西ドイツ代表選手ベルティ・フォクツやライナー・ボンホフがいたが、フランスのスピードにまったくついていけなかった。

 あとから思えば、これが「フランス・サッカー・ルネッサンス(再生)」の兆しだったのである。プラティニを中心にした若い世代のフランス代表は、1978年アルゼンチン大会で12年ぶりにワールドカップに出場して高い評価を受け、4年後の1982年スペイン大会では「伝説」の1958年大会に並ぶ3位に躍進、1984年の欧州選手権では5試合で9得点というプラティニの活躍で初優勝を飾るのである。

 倉井カメラマンの機転でその重要な試合を見ることができたわけだが、その日の私はただ「若くて面白いチームを見た」という程度の思いを抱いただけだった。これがとんだ「拾いもの」であったことを自覚するのは、翌年、アルゼンチンとブラジルに遠征し、2戦2分け(アルゼンチンに0-0、ブラジルに2-2)の成績を残したフランス代表のプレーを見たときだった。

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