サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム。今回のテーマは、世界に知られる前の「将軍」と「イレブン」との予期せぬ遭遇。

■2回目の「欧州取材」旅行へ

 犬も歩けば棒に当たる―。ごくまれにではあるけれど、人は思いがけない「拾いもの」をする幸運に出合う。私にとって、それは「ある代表チームの発見」だった。

 1976年夏。『サッカー・マガジン』で働き始めて4年目だった。私は「欧州出張」のチャンスを得た。といっても多少説明がいる。

 ある旅行会社が「イギリス・サッカー教室」を企画した。夏休みに「サッカーの母国」イングランドで「イングランドサッカー協会(FA)公認コーチ」の指導でトレーニングし、地元の少年たちと試合をする。午前中は英会話の勉強をし、午後はサッカーという、なかなか欲張りなものだった。

 会場はイングランド中部のシェフィールド。名門シェフィールド大学のグラウンドを使い、学年の切れ目である夏の間は「空室」になる大学の寮を宿舎として使うという。

 我がサッカー・マガジンのアイデアマンであったH氏は、その話を聞くと、超高速で頭脳を回転させ、その場で募集広告を数回掲載することを申し出た。その対価は、編集部員を1人、「同行取材」させること――。その役割が私に振られたのである。

「同行取材」と行っても、「サッカー教室」は8月14日に出発して、28日に帰国する。2週間もの期間がある。H氏は旅行会社と交渉し、「数日間同行取材し、グラビアで2ページのレポートを出すが、それ以外は、『サッカー教室』から離れ、帰国日の前日に再合流して一緒の便で帰国する」という条件をのませた。私にとっては、2年前のワールドカップ西ドイツ大会に次ぐ2回目の「欧州取材」だった。

■優勝チームよりも「マンU」

 ちょうどイングランド・リーグ開幕の時期である。私は帰国直後の「10月10日号(9月10日発売)」に、表紙だけでなく、カラーグラビア10ページ、モノクログラビア10ページ、そして本文13ページ、計34ページをマンチェスター・ユナイテッドだけに使う「無謀」とまで言える企画を立て、意気揚々、羽田空港(成田空港はまだ開港していなかった)からBA(英国航空)機に乗り込んだ。

 前シーズンのイングランド・リーグチャンピオンはリバプールだった。伝説の名監督ビル・シャンクリーは1974年に引退したが、後を継いだボブ・ペイズリー監督はより鉄壁なチームを築き、ケビン・キーガンを中心としたチームは強力そのものだった。前シーズンにはUEFAカップでも優勝を飾り、この年は欧州チャンピオンズカップで初優勝を狙っていた(実際、このシーズン、リバプールはイングランド・リーグとチャンピオンズカップの「2冠」を達成する)。

 そのリバプールにはまったく触れず、マンチェスター・ユナイテッドだけで34ページもの大特集なのである。それは、「サッカー・マガジン」の編集部が、そろってユナイテッド・ファンだったためだった。

■監督インタビューは「直談判」

 ユナイテッドは1974年に2部落ちの苦杯をなめたものの、トミー・ドカティ監督の指揮下、1年で1部に復帰、その1年目、1975/76シーズンは3位の好成績を残した。若く魅力的なチームだったが、何よりも、私たちの脳裏には、1958年の「ミュンヘンの悲劇」と、そこから立ち上がって1968年に欧州チャンピオンズカップで初優勝するまでの物語が刷り込まれていた。

 東京12チャンネルの「三菱ダイヤモンド・サッカー」を通じて、日本でイングランドのサッカーが見られるようになった1960年代末から1970年代にかけて、圧倒的な人気を持ったのが、ジョージ・ベストやボビー・チャールトンを擁するユナイテッドだった。だから、初めてイングランドに行くなら、誰が何と言おうともユナイテッドだった。34ページぶち抜きは、まだ足りないほどだった。

 もちろん、マンチェスター・ユナイテッドには、事務局長あてに取材に行くので許可してほしい旨の手紙は出してあった。返事など来ない。本文13ページのうち4ページはドカティ監督へのインタビュー記事であり、これは現地で交渉して私が原稿を書かなければならないものだった。だが25歳になったばかりの私は「なんとかなるさ」と、超楽天的だった。

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