ソフトバンクホークスが誕生した2005年、馬原孝浩氏が新守護神に いくつもの偶然が重なり、鷹の守護神は生まれた。「福岡ソフトバンクホークス」となり、新たな球団の歴史が始まった2005年。この変革期において大役を託され、マウンドを重ね続けたの…
ソフトバンクホークスが誕生した2005年、馬原孝浩氏が新守護神に
いくつもの偶然が重なり、鷹の守護神は生まれた。「福岡ソフトバンクホークス」となり、新たな球団の歴史が始まった2005年。この変革期において“大役”を託され、マウンドを重ね続けたのが、馬原孝浩氏だった。ダイエー、ソフトバンク、オリックスで通算385試合に登板し、182セーブを記録した右腕。その役割は、現代のクローザー像とは大きく異なっていた。
「当時、僕は7回からいくぞって言われていたんですよ。時代なんですかね」。馬原氏は、抑えを任されたころの状況を笑いながら振り返る。1点リードしていれば、7回の途中であっても名前を呼ばれた。8回にピンチを迎えれば、イニングの途中からでも登板するのが日常茶飯事だった。
「9回に合わせるってことがあまりなかった」と語るように、試合展開によって投げるイニングは日々変わっていった。相手打線がひと回りすることも想定した準備を強いられる、過酷なポジションだった。
入団1年目の2004年、馬原氏は先発投手としてプロのキャリアをスタートさせた。しかし、当時のホークス先発陣は球界を代表する顔ぶれ。絶対的エースの斉藤和巳氏に加え、杉内俊哉氏、和田毅氏、新垣渚氏といった「松坂世代」の才能豊かな投手たちがローテーションを固めていた。「残りの1、2枠を争っていたんですけど、1つは外国人枠でもあったので。実質1枠だけだったんですよね」。
その枠を巡り、寺原隼人氏や神内靖氏らと2軍でしのぎを削る日々。「2軍で完封しても、1軍に呼ばれないんですよ」。それほどに食い込む隙がなかった当時の先発ローテ。「アマチュア時代から“5〜6割投法”でやってきていたんです。(10割で)力んだらもう絶対にダメだったので。自分でそれを確立していたんですが……」。そのスタイルが評価されてのプロ入りではあったが、それが通用しない現実に直面した1年目でもあった。
もがき苦しむ中、2005年の交流戦を前に大きな決断を下す。「2軍でこれはちょっと、もうダメだなと思って……。人生で初めて“全力投球”してみようと思いました。もう肩が壊れてもいいやって」。プロで生き残るため、長年培ってきた投球スタイルを捨てる覚悟を決めた。
巡ってきた千載一遇のチャンス
この決意と時を同じくして、1軍のブルペン事情に変化が訪れる。当時抑えを任されていた左腕の三瀬幸司氏が、6月の阪神戦(甲子園)で金本知憲氏の頭部に死球を与えてしまう。この危険球退場をきっかけに、調子を落とした三瀬氏に代わる投手を、1軍首脳陣は急きょ2軍に求めた。「先発として1軍に上がるというのではなくて、リリーフで3、4試合抑えたら上がれる可能性があるぞ」。馬原氏は2軍投手コーチから告げられたという。
全力投球を始めた時期、1軍がリリーフ投手を必要としたタイミング、そして首脳陣からの打診――。その全てが重なった。「『馬原が行きます』というコーチの言葉で、交流戦の巨人戦で呼ばれることになったんです」。こうして守護神・馬原孝浩が誕生した。
当時のリリーフ投手がいかに過酷だったかは、先輩たちの言葉が物語っていた。「プロの世界に入っても、『リリーフにはなるな』ってずっと先輩たちから言われていたんです。『みんな3年で絶対ダメになるぞ』と」。リリーフ投手になるということは、消耗との戦いでもあった。それは選手生命を短くする可能性があることを意味していたからだ。
「楽天戦の寒い中、7回くらいですかね。まだ肩も作らずにブルペンに座っていて、日に当たりながらモニターを見ていたんです。ノーアウト一塁になって、いきなり王(貞治)さんが出てきて『馬原』って言ったんですよ。そんなこともあったので、もうそういったことも承知済みというか」
わずか3球の投球練習でマウンドに上がり、そこから2イニングを投げることもあったという。そんな想像を絶する厳しい環境を乗り越え、馬原氏はソフトバンクホークス初代守護神としての地位を築き上げていった。
2007年にはキャリア最多の54試合に登板し、2勝4敗38セーブ、防御率1.47で最多セーブのタイトルを獲得。ソフトバンク創成期の最終回に君臨し続けた。偶然と覚悟で掴み取った決死のマウンドは、時をへても色褪せることはない。(飯田航平 / Kohei Iida)