捕手の田淵幸一氏が「真っすぐのサインしか出さなかった」理由 法大OBでプロ入り後にNPB歴代4位の通算536本塁打を放った山本浩二氏が11日、東京六大学野球連盟結成100周年記念の「レジェンド始球式」に登板。報道陣の取材に応じ、無名高校の投…
捕手の田淵幸一氏が「真っすぐのサインしか出さなかった」理由
法大OBでプロ入り後にNPB歴代4位の通算536本塁打を放った山本浩二氏が11日、東京六大学野球連盟結成100周年記念の「レジェンド始球式」に登板。報道陣の取材に応じ、無名高校の投手が希代のスラッガーに変身できた理由を回顧。「人生であれほど苦しい思いをしたことはない」と大学時代を振り返った。
打者の内角低めへ投じられたボールは、惜しくもワンバウンド。78歳の山本氏は「最近、届かないのよ。本当はノーバウンドで投げたかったけれど、体が言うことを聞かない。自己採点? もうゼロだよ」と苦笑した。
野球では無名の広島・廿日市(はつかいち)高でエース兼4番だった山本氏は、法大2年の時に外野手転向。すうるとメキメキ頭角を現し、同期の捕手・田淵幸一氏、強打の三塁手だった故・富田勝氏とともに“法政3羽ガラス”と称された。
その後、山本氏は1968年ドラフト1位で広島入り。1975年に球団創設初優勝をもたらしたのをはじめ、カープひと筋18年間で通算2339安打、NPB史上歴代5位の通算536本塁打をマークし“ミスター赤ヘル”と呼ばれた。
山本氏は法大在学中、投手として1度だけ田淵氏とバッテリーを組んだことがあるという。都内の東大のグラウンドで行われた新人戦。「ワシは当時フォーク、スライダー、カーブも投げられたのに、田淵は真っすぐのサインしか出さない。当然打たれた。『どうして真っすぐだけなのか?』と聞くと、『オヤジ(当時法大監督を務めていた故・松永玲一氏)が、真っすぐ以外は投げさせるなと言っている』というんだ」と回想する。「その頃から野手転向がなんとなく決まっていたみたい」と苦笑。「後に松永さんから『1年生からレギュラーだった田淵の前後を打つバッターが欲しかった』と明かされた。富田とワシに白羽が立ったというわけだ」と説明した。
打者としての才能を見抜いた恩師の慧眼、猛練習、ライバルの存在
名将の誉れ高い松永氏に打撃の才能を認められたとはいえ、それでスンナリ、日本を代表するスラッガーへの道が開けたわけではなかった。「富田と2人で、めちゃくちゃ鍛えられた。人生であれほど苦しい思いをしたことはない」と振り返る。「チーム練習、新人練習が終わった後、ワシが外野、富田が内野に就いて、遅くまでノックを受けた」。照明設備が乏しかった時代とあって、暗くなるとボールに石灰を塗って特訓を続けた。「松永さんのお陰で野手に転向できたし、鍛えてもらったお陰でここまで来られた」と感慨深げだ。
“法政3羽ガラス”は、田淵氏も阪神、西武で長距離砲として通算474本塁打をマーク。富田氏も南海(現ソフトバンク)、巨人などNPB4球団で活躍した。
「法大時代、ワシと田淵で“2打席連続アベックホームラン”を打ったこともあるんだよ」と胸を張る山本氏。一方で「よきライバル、よき仲間に恵まれた。苦しいノックも富田と一緒だから耐えられた。先にへばるわけにはいかなかったからね。3人とも、ライバルだけれど、仲はすごくよかったんだよ」と付け加えた。
山本氏は現役引退後、2度にわたって通算10年、広島の監督を務めた(1989年~1993年、2001年~2005年)。2013年の第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、野球日本代表「侍ジャパン」を監督として率いた。日本を代表する野球人の1人だが、その重要な転機が大学時代の4年間にあった。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)