J2は、今シーズンも激戦が続いている。残るは6節となっているが、J1昇格プレーオフにどのチームが進むのか、まったく見え…

 J2は、今シーズンも激戦が続いている。残るは6節となっているが、J1昇格プレーオフにどのチームが進むのか、まったく見えてこない。その中で、サッカージャーナリスト後藤健生が注目するチームがある。前身の時代から名門として知られた、ジェフユナイテッド千葉である。

■オシムの下で強化「リーグ3位」2回も…

 ジェフユナイテッド千葉はJリーグのオリジナル10の一つであり、リーグ優勝こそなかったものの、2000年代前半にはズデンコ・ベルデニックやイビチャ・オシムといった東欧系の監督の下で強化。リーグ戦では3位が2度あり、リーグカップ(ナビスコカップ)では2度の優勝を経験している。

 だが、2009年には最下位に沈んで、ついにJ2リーグに降格。以後、一度もJ1リーグに復帰できないでいる。

 その間、J1昇格プレーオフに出場したことはあるが、このところJ2リーグの中位にすっかり定着。J3降格の心配もないものの、昇格には遠いようなシーズンが続いていた。

 スタジアムの雰囲気も(こういう言い方をしては失礼なのは承知の上で言うが)「沈滞ムード」が漂っていた。

 そんな千葉の空気を変えたのが、昨年就任した小林慶行監督だった。

 東京ヴェルディなどで活躍したMFだった小林氏は、2023年に千葉の監督に就任。トップチームの監督に就任するのは、これが初めてだった。

 そして、昨年のシーズン、ジェフユナイテッド千葉を次第に自らのカラーに染め変えて、リーグ戦終盤に順位を上げて、J1昇格プレーオフに駒を進めた(準決勝敗退)。

 単に順位を上げただけではない。小林監督の最大の功績は、J2リーグ戦の中位に定着し、沈滞ムードが漂っていたチーム、クラブの雰囲気を一変させたことだろう。

 勝負にこだわって戦術を駆使したり、時間稼ぎをしたりせず、常に前を向いて自分たちの目指すサッカーにこだわり続けた。現役時代もクラブの方針や監督の戦術を批判して物議を醸したこともある人物だっただけに、小林監督は独特のサッカー観を持っているのだ。

 そうした攻守ともにアグレッシブな選手たちの姿勢が、スタンドにも伝わったようで、2023年シーズンの後半、ホームスタジアム、フクダ電子アリーナの空気が一変した。

 黄色と緑と赤の派手な(まるでアフリカかカリブ海のチームのような)色使いのキットにふさわしい熱気あふれるスタンドになったのだ。

■実業団サッカーの「名門中の名門」

 Jリーグの「オリジナル10」である以上に、ジェフ千葉というクラブにはさらに古い伝統がある。

 ご承知のように、前身は日本初の全国リーグである日本サッカーリーグ(JSL)の古河電気工業サッカー部である(古河電工は、現在でもJR東日本とともに50%ずつを出資している主要株主)。

 JSLは、前回の東京オリンピックの翌1965年に幕を開けた。東京オリンピックの日本代表強化のために西ドイツから招聘され、「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマー・コーチの提言を受けて実現された全国リーグだった。

 それまで、日本のサッカー界では全国大会はすべてノックアウト式の大会だけだった。それでは1回戦で負けたチームは試合の機会が減ってしまうし、大会が集中式の連戦で行われることが多かったので、準決勝、決勝は非常に疲労がたまった状態での対戦となった。

 そんな弊害を避けるために、リーグ戦が結成されたのだ(当時、日本のスポーツ界で全国リーグが行われていたのは、プロ野球だけだった)。

 そんな時代だったから、当時は「ホーム&アウェー」方式にも馴染みがなかった。そこで、JSLのプログラムにはその説明が掲載されていた。その「例」として取り上げられていたのが、古河電工と八幡製鉄の対戦だった。「1試合は古河の本拠地の東京で、もう1試合は八幡の本拠地の北九州市で行われる」という説明だった。

 古河と八幡が例として取り上げられたのは、東京と北九州という遠隔の地同士だったからなのだろうが、東京には古河のほかに三菱重工(浦和レッズの前身)や日立本社(柏レイソルの前身)もあった。古河が例として取り上げられたのは、「古河こそが実業団サッカーの名門中の名門」という意識があったからだろう。

■現役時代から「チームリーダー」的存在

 日本のサッカーは第2次世界大戦前は大学チームが最強であり、関東と関西の大学リーグが日本のトップリーグだった。戦後になると卒業生たちも勤務先の企業チームでサッカーを続けることが多くなったが、天皇杯では彼らはOBとして大学チームの一員として戦った。

 実業団(企業のチーム)として本格的に強化に乗り出したのが東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)や古河で、実業団チームとして初めて天皇杯決勝に進出したのが1954年の東洋工業(慶應BRBに敗れる)。そして、慶應BRBを破って、実業団チームとして初めて優勝したのが1965年の古河だった。

 実業団の雄としてJSLに参戦した古河は、JSL優勝こそ2回に留まっているが、JSL2部に陥落したことがない唯一のクラブだった。

 古河というチームは、永井良和や奥寺康彦が在籍していた当時に攻撃的サッカーで優勝したこともあったが、どちらかと言えば地味で安定感のある、大人びたチームという印象が強かった。

 選手、監督として古河を強豪に育て上げ、後に日本代表監督、日本サッカー協会専務理事・会長として常に日本サッカーをリードしてきた長沼健をはじめ、日本サッカー界の重鎮を何人も輩出してきたのが古河だった。岡田武史も古河の守備的MFやリベロを務めており、現役時代からチームリーダー的存在だった。

 ちなみに、僕もJSL時代には古河のファンで、高校生時代には手作りの応援旗を持って国立競技場に通ったものだった。

いま一番読まれている記事を読む