濱中治氏は2007年に打率.193、6本塁打…深刻な打撃不振に陥った 阪神で4番打者を務めた濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)は2007年オフ、吉野誠投手とともにオリックスへ移籍した。平野恵一内野手、阿部健太投手と…

濱中治氏は2007年に打率.193、6本塁打…深刻な打撃不振に陥った

 阪神で4番打者を務めた濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)は2007年オフ、吉野誠投手とともにオリックスへ移籍した。平野恵一内野手、阿部健太投手との2対2の交換トレードだった。兵庫・尼崎市内のホテルで通告されたという。その場で了承したが「無茶苦茶ショックでした。タイガースで何とかして活躍したかったですし、せめてあと1年待ってほしかったです」と当時の心境を語った。

 プロ11年目、2007年の濱中氏は3月30日の広島との開幕戦(広島)に「6番・右翼」でスタメン出場した。キャリアハイの打率.302、20本塁打、75打点の成績を残した前年(2006年)は、3、4月に打率.435、10本塁打、22打点と打棒爆発。その再現を目指して意気込んだが、調子はなかなか上がらなかった。「打って当たり前と思われているなかで常にプレッシャーを感じながらやっていたような気がします」。

 流れは悪くなるばかりだった。打率は1割台に低迷。本塁打ゼロが続き、4月23日には登録抹消となった。2軍調整を経て5月22日に1軍復帰したが、レギュラーの座はなくなり、交流戦中のDH以外は代打中心。6月7日には再び抹消された。「怪我とかも何もなかったんですけど、使ってもらえなくなった感じでしたね。まぁ。結果を出していなかったからなんでしょうけどね」と濱中氏は唇をかんだ。

「ホームランとか長打を求められる立場だったので、打たないと、打たないとって余計バッティングが崩れていったのはあるでしょうね。僕のバロメータはホームランで、早めに出たシーズンはトントントンといきやすいんですけど、出なかった年は結構苦労しているんです。自分を追い込んでしまってね。2007年も打ち方とかの問題ではなく、メンタル的な問題が大きかったと思いますね」

 2007年の1号は8月3日の広島戦(広島)で放った代打アーチ。8月2日にようやく1軍に戻り、その翌日に飛び出した。「1本出たら、感覚って戻ってくるんですよ」と話したように、そこから2か月で6本塁打をマークした。2号以降はすべてスタメン出場時の一発だったが、首脳陣の信頼回復までは至らなかったようで、その間も代打出場が半分以上を占めた。この年は62試合、打率.193、6本塁打、14打点。不本意すぎる結果だった。

2対2でオリへトレード「あと1年待ってほしかったというのが正直な気持ち」

 阪神は3位となり、2位中日とのクライマックスシリーズファーストステージ(10月13、14日、ナゴヤドーム)に臨んだが、0勝2敗で敗退。濱中氏は2試合とも代打で起用された。1試合目は代打の代打を出されて打席なし、2試合目は中飛で終わった。結果的にこれが阪神での最後の出場となった。もちろん、その時はそんなふうに思ってもいない。このオフに通告されたオリックスへのトレードは、濱中氏にとってあまりにも衝撃的すぎた。

「そのちょっと前に新聞に僕のトレードの話が出たんですよ。日本ハムかロッテかって。まぁ、でもそういうのが出たら、こういう話って流れるっていうのがよくあるじゃないですか。その時もそう思っていたんですけど、球団から電話がかかってきて『明日、尼崎のホテルに来てくれるか』って。ホントにトレードなのかって思いながら次の日に行ったら『オリックスに決まったから』と言われて……。もう無茶苦茶ショックでしたよ」

 その場で了承はした。「だって“わかりました”しかないですもんね。プロの世界、決まったと言われたら、そこに従うしかないのでね」。でも、悔しかったし、悲しかった。「タイガースに骨を埋めたいという気持ちでずっとやってきたのでね。その年(2007年)に成績を残せなかった自分が悪いんですけど、前の年(2006年)は成績を出したし、すぐにトレードに出すんじゃなくて、あと1年待ってほしかったというのが正直な気持ちでした」

 2軍時代からお世話になった岡田監督に見切られた形にもなり、複雑な思いだった。「岡田さんにはバッティングを教わることも多かったし、感謝していますけど……」。1996年ドラフト3位で阪神に入団。第85代の4番打者も務めるなど“さあこれから”という時に右肩故障に見舞われ、野球人生の流れが変わった。それでも必死に復活ロードを歩んできた中でのトレード。どうすることもできないことだったとはいえ寂しさが募った。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)