スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイ…
スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイケル・ジョーダンしかり、ゴルフのタイガー・ウッズしかり、ベースボールの大谷翔平しかり…。現在、日本の人々がサッカーに親しんでいるのは、あるスーパースターと深い関係があると指摘するのは、サッカージャーナリストの大住良之だ。その見つめる先は45年前、1979年に日本で開かれた世界大会「ワールドユース」。この大会で躍動した「神の子」と、彼のプレーに魅了された人々、そして、各国の強豪と戦った日本ユース代表が日本サッカー界にもたらしたものとは?
■代表の土台を担った「1979年組」
尾崎加寿夫と風間八宏がドイツで奮闘していた1985年、日本代表は1986年ワールドカップ予選で勝ち進み、最終ラウンド、韓国とのホームアンドアウェーで勝てばワールドカップ初出場というところまでいった。(韓国に勝っていれば、ワールドカップ初戦の相手はアルゼンチンであり、キャリアでベストの状態にあったマラドーナだった)。しかし、東京で1-2、ソウルで0-1と連敗。夢は、かなわなかった。
韓国はすでにプロ化して数年を経ていた。「日本もプロ化しなければ、世界には出ていけない」―。韓国との実力差をまざまざと見せつけられたことが、後に日本サッカーリーグの「活性化委員会」、さらに「プロリーグ化」、Jリーグへとつながり、そこから日本サッカーの急速な成長が始まったことはよく知られている。
しかし、このワールドカップ予選の日本代表の土台に、「ワールドユース1979組」がいたことは、あまり意識されていない。監督は、ワールドユースでコーチを務めた森孝慈だった。宮内、柱谷、水沼の3人は予選を通じて中心メンバーだった。その他にも、田中、越田、鈴木、名取の4人が予選のメンバーとなった。実に7人もの「ワールドユース組」がいたのだ。尾崎と風間が日本にいれば、当然、彼らも中心メンバーのひとりだっただろう。
「日本ユース1979」は、日本のサッカーが「不毛」と言っていい時代に唯一、世界と真っ向から戦い、奮戦しながら散った「あだ花」ではなかった。選手として、指導者として、さらに役員として、その後の日本のサッカーを支え、発展の時代につなぐ「礎」の役割を見事に果たしたと言っても過言ではないはずだ。
■この大会で突然、出現した「サポーター」
最後にもうひとつ、この大会で忘れてはいけないものがある。日本を応援したサポーターである。
それまでの日本サッカーには、サポーターはいなかった。ここでいうサポーターとは、自主的に入場券を買って集まった入場者が集団となって声を上げ、歌を歌い、旗を振って、勝っても負けても、最後までチームを支え続ける人びとのことである。それがこの大会で突然、出現したのだ。
日本の3試合はすべて国立競技場で行われたが、合計観客数は10万人に達した。この当時の日本のサッカーでは異例のことだった。もちろん、日本代表の試合をはるかに上回った。たとえば3月に同じ国立競技場で行われた日韓定期戦は韓国に2-1で勝った試合だったが、観客は1万8000人だった。
入場料が安く、夏休み中で、高校生までの若いファンが非常に多かったこともある。そうした若者たちは国立競技場のバックスタンドに集まり、無数の日の丸を振った。
■選手たちを奮い立たせた「君が代」の大合唱
試合前に驚かせたのは、「君が代」の大合唱が起こったことだった。大相撲の千秋楽以外には見られない光景であり、しかも当時の国立競技場の巨大なバックスタンドから湧き上がった大合唱は間違いなく選手たちを奮い立たせた。
「ニッポン、チャチャチャ」の声援と拍手は、国際試合では見慣れたものだったが、それが1万人を超す声と拍手になると、迫力はまったく違った。そしてピンチになるとGKの鈴木康仁を励ます「スズキ、スズキ!」の連呼。惜しいシュートがあれば、「オザキ、オザキ!」の声。たえまないチアホーン、舞い散る紙吹雪。こんなにたくさんの若者が心をひとつにしてチームの奮闘を引き出す姿は、まさに新時代のものだった。
3試合が終わった後には、選手のバスを何百人ものサポーターが取り囲み、出てきた選手たちをもみくちゃにした。風間にいたっては、パスの窓から引き出され、胴上げされ、「ヤヒロ、ヤヒロ!」の連呼を受ける。そして最後には、「ごくろうさん、ごくろうさん!」の声、さらには「明日がある、明日がある」と続いた。
「サポーター」が日本のサッカーに根づくのはJリーグ以後のことだが、そこから10数年も前にこれほどパワフルなサポーターが存在したことは、しっかりと記録されなければならない。サッカーという文化のなかで欠かすことはできないサポーターが誕生したこと、これも間違いなく、1990年代以降の日本サッカーの急成長の「礎」だった。