サッカーは日々、発展を続けている。取り巻く環境もまた、変化を続けている。だが、その肥大化は、はたして進化と呼べるものな…

 サッカーは日々、発展を続けている。取り巻く環境もまた、変化を続けている。だが、その肥大化は、はたして進化と呼べるものなのか。一枚の写真が投げかける「問い」について、サッカージャーナリスト大住良之が考える。

■開いたときの感想「入場券の写真か」

「EUROでの『物価』の高さについて日本の友人とメールを交換したときに、こんな写真を送りました」

 ベルリンに在住するカメラマンのカイ・サワベ氏からメールとともに1枚の写真が送られてきたのは、ドイツで開催されていた欧州選手権(EURO)が閉幕した数日後のことだった。

 開いたときには、「入場券の写真か」といった程度の感想だった。だが、よく見ると、それはEURO24の入場券などではなく、半世紀近く前、1977年のイングランド・リーグ、マンチェスター・ユナイテッドリバプールの入場券だった。会場は、当時すでに「夢の劇場」と呼ばれていたオールド・トラフォードである。

 その値段を見て目を疑った。「90p」。すなわち90ペンス。この人気カードが、1ポンドもしないのである。当時の1英ポンドは約460円。90ペンスは414円にしかならない。

「PADDOCK OLD TRAFFORD」とある。メインスタンド1階、タッチラインに沿って設けられた立ち見席の、ピッチに向かって右半分の部分である。これは「ユナイテッド・ファン歴60年近く」という小嶋明氏に教わった(サワベ氏の「日本の友人」というのが、この小嶋氏である)。当時のオールド・トラフォード・スタジアムには、両タッチライン沿いの1階に立ち見席が設けられてあり、「パドック」と呼ばれ、それぞれに名前がつけられていた。

■チケットを持っている人物の「手と爪」

 競馬場で観客が馬の状態を下見するために設けられた小さな囲い地を示す「パドック」を、手を伸ばせば選手に触れられそうな立ち見席の名に使うのは、いかにもイングランドらしい。イングランドのスタジアムにはもう存在しない立ち見席は、当時「テラス」と呼ぶクラブもあったが、チェルシーFCのスタンフォード・ブリッジ・スタジアムでは、「シェッド(物置)」と呼んでいた。

 驚くのは、「オールド・トラフォード・パドック」90ペンスが、この試合の「最安席」ではなかったということだ。小嶋氏によれば、最も熱狂的なサポーターが集結するゴール裏の「ストレットフォード・エンド」という立ち見席は、このシーズンの入場料が80ペンス(約368円)だったという。

 サワベ氏の写真が与える第一の驚きは、この入場料の安さである。

 しかし、それ以上に私が衝撃を受けたのが、この入場券を持っている人物の手と爪だった。けっしてゴツゴツしているわけではない。20代か、もしかしたら10代の「青年」だろう。彼の爪の先や皮膚との境には、黒いものがこびりついている。何らかの工場で、毎日油まみれになって働いている手であることは間違いない。1977年当時のサッカーがこういう人々のものであったことを、この写真は雄弁に物語っている。

 日本のサッカーと比較すれば、そのころも、ヨーロッパのサッカーは夢のような世界だった。巨大なスタジアムがいつも満員になり、サポーターが歌い、スター選手が躍動し、プロフェッショナルによるスピーディーなサッカーが展開されていた。

■生中継で「スタジアムに人が来なくなる」

 しかし、当時の欧州のプロサッカーは、現在とはまったく違う世界だった。第一に、テレビの生中継がなかった。「生中継するとスタジアムに人が来なくなる」と信じられていたからだ。だから当然、「放映権収入」もなかった。そして、ユニフォーム・スポンサーも解禁されたばかりで、収入も限られていた。クラブの財政は、入場料収入に大きく負っていたのである。その入場料がわずか80ペンス、90ペンスというのは、サッカーが、「若者や労働者たちのスポーツ」であったことを示している。

 ちなみに、1977年の「日本サッカーリーグ(JSL)」の入場料は、「一般・大学生」の前売りで400円。試合当日に窓口で買うと600円だった。JSLには、席による入場料の違いはなかった。もうひとつ、ちなみに、1977年のJSLの1試合平均入場者数は1773人だった。

 1977年10月1日土曜日。イングランド中部のマンチェスターは快晴。西からの強めの風が吹いて、秋の深まりを感じさせていた。

 ビジターのリバプールは欧州チャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)で初優勝を飾って「黄金時代」が始まった頃で、名手ケニー・ダルグリッシュを中心に攻守両面で強力な布陣を誇っていた。しかし、若い野心的なタレントを並べたユナイテッドは、後半にルー・マカリとサミー・マキルロイが連続得点し、2-0の勝利をつかむ。入場者は5万5109人。この試合を、若者や労働者たちは1ポンドにも満たない入場料で楽しむことができたのである。

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