1970年代に流行った『野球狂の詩』(講談社/作者:水島新司)という漫画があった。弱小チームである東京メッツを舞台にしたプロ野球の話で、物語の後半に登場し主役となったのが水原勇気だ。初の女子プロ野球選手、さらに魔球を持つ左のアンダース…

 1970年代に流行った『野球狂の詩』(講談社/作者:水島新司)という漫画があった。弱小チームである東京メッツを舞台にしたプロ野球の話で、物語の後半に登場し主役となったのが水原勇気だ。初の女子プロ野球選手、さらに魔球を持つ左のアンダースローという斬新な設定もあり、大きな話題となった。


6月24日、肝臓がんのため63歳で死去した永射保氏

 その”水原誕生”のヒントとなったのが、先日63歳で急逝した永射保(ながい・たもつ)氏だった。以前、永射氏からこんな話を聞いたことがあった。

「水島先生が数日、密着したことがあったね。最終的に『男じゃつまらん』ということで女性投手となったみたいですけど、僕のフォームとかいろいろ見ていかれました」

 また、1978年にピンク・レディーが歌い大ヒットした『サウスポー』という曲があったが、そこに登場する左投手のモデルとなったのも永射氏だったという。

「だからオフに、ピンク・レディーのふたりと舞台に並んで『サウスポー』を歌ったんですよ」

 水島新司と阿久悠――漫画界と歌謡界のヒットメーカーふたりのアンテナに引っ掛かったというだけでも、当時の永射氏がいかに特別な投手であったかがわかる。

 70年代半ばから約10年。永射氏は、パ・リーグの並み居る左のスラッガーたちを腰砕けにし、そのバットに空を切らせた。まさに”一殺”の「左殺し」として球史にその名を刻んだ。

 永射氏の訃報を伝えるニュースを目にし、脳裏に浮かんだのは、左のアンダースローという空想的な投球フォームと、以前、北九州で永射氏が経営していた居酒屋「野球狂の詩」とスナック「サウスポー」をはしごしながら語ってくれた熱い言葉だった。

 鹿児島の指宿(いぶすき)商時代の永射氏は、勢いのある真っすぐとブレーキの効いたカーブが持ち味のオーバーハンドの投手だった。1971年のドラフトで広島から3位指名を受け入団。身長が170センチちょっとしかなかったことと、当時巨人の王貞治の対策に頭を悩ませていた首脳陣の指示で、1年目のオフに早くも腕を下げた。

 1974年に太平洋(現・西武)に移籍してからフォームが固まり始め、腕はさらに下がっていった。

「どうせやるならもっと下げてやろう。左のアンダースローは野球界のタブーみたいになっていたけど、『タブーは破るもの!』と思っていましたから……」

 しかし腕を下げていくと、見本になる投手が見当たらなくなってしまった。そこで参考にしたのが、阪急(現・オリックス)の大エース・山田久志だ。

「腰の使い方、腕の出し方、ボールを離すタイミング……山田さんのフォームを見て、徹底的に考えました。なかでも、ボールを長く持つにはどうしたらいいのか。球離れが早いと、抜け球が多くなって、コントロールも安定しないし、キレも出ない。そこを徹底的に追求しました」

 そして永射氏の出した答えが下半身の強さだった。

「山田さんのフォームは、さすが理にかなっていた。あのボールのキレもコントロールも、下半身の強さがあったからなんです。山田さんの足腰の強さはピカイチですから」

 そういう永射氏も下半身の強さには自信があった。中学時代から毎日25~30キロを欠かさず走っていたからだ。その理由は「早く帰ると、商売をしていた家の仕事を手伝わされるから」だったが、走る習慣はプロ入り後も続き、左右逆の山田久志のような投球フォームが完成した。

 1982年に広岡達朗が西武の監督になり、先発とリリーフの分業制がスタートした。それ以前の永射氏は、本人曰く「3連戦の初戦が先発、2戦目がワンポイント、3戦目が中継ぎか抑えということもあった」という通り、1977年のシーズンは199回2/3イニングを投げている。

 それがリリーフ専門となり、なかでも左の強打者相手という特殊な仕事を任されることになった。

 左の下手から浮き上がって見えるストレートに、左打者の背中越しから視界の外へ消えていくカーブ。たったこのふたつの球種で、パ・リーグの左の強打者たちを抑え込み、時には戦意さえ奪った。

 なかでも4年間で155本塁打を放ち、”サモアの怪人”と呼ばれたトニー・ソレイタ(日本ハム)は完璧に封じ込めた。

「4年間、ヒットもなかったんじゃないかな。しかも、僕のイメージでは9割が三振。毎年、40本塁打、100打点くらいを稼いでいたのに、最後はクビ。当時の日本ハムは、とにかく西武に勝つことだけを考えていて、監督の大沢(啓二)さんが『西武戦で打てんようなヤツはいらん』となったみたいで……。僕以外の投手には素晴らしいバッティングをしていたのに、かわいそうな話ですよね(笑)」

 また、4000打数以上でNPB歴代トップの打率.320を誇るレロン・リー(ロッテ)は、あまりの苦手意識から右打席に立ったこともあった。

「所沢の試合でした。満塁で、どうせ打てないからと右打席に立ったんだけど、インコースをどん詰まりでレフト前に持っていかれてね。こっちも半分笑いながら投げていた」

 対戦するのは主軸打者ばかり。相手ベンチからすると、代打を出すわけにもいかない。そう話を向けると、「それが一度だけね」と言って、こんなエピソードを教えてくれた。

 永射氏が西武から大洋を経てダイエー(現・ソフトバンク)に移籍した1989年のことだ。オリックス戦で、打者は門田博光。すると、門田が自ら上田利治監督に「交代させてほしい」と申し入れ、右の若手が代打に送られた。

「これで門田さんは一生、僕のボールは打てないと思った」

 永射氏の全盛期。対戦を見ていて、「打者はもっとベースに近づけばいいのに」と思っていた。外角のボールに対し、明らかにバットが届いていなかったからだ。しかし、そんなレベルの話では、もちろんなかった。

「インコースをたまに見せながら、問題はバッターの立つ位置より、いかに腰を引かせられるかどうか。どんなにベース寄りに立っても、打ちにいったときに一瞬でも腰が引けて、逃げてくれたら僕の勝ち。一瞬でも腰が引けると、バッターからはボールが遠くに見えるし、芯で捉えられてもスタンドまではいかないから」

 1試合27あるアウトのうち、永射氏はそのなかで勝敗がかかった1つを取った。チームもファンも、常に完璧を求めた。その重圧の凄まじさは想像に難くない。

「でも、やり甲斐を感じていたし、ワンポイントという仕事は性格的にも合っていた。みんなが『どうしようもない。困った』という場面で出ていって、抑えるというのは最高に気持ちいいからね。それに、ほかのピッチャーの前ではガンガン打つ強打者が、僕の前でだけは腰砕けのスイングをする。こんな快感ないですよ」

 ストレートとカーブだけで、プロ19年間で606試合に登板した。ただ、防御率に注目すれば、2点台は2.41を記録した1983年のみ。実際にはそれなりに打たれ、それなりに点も失っていた。ただ、「ここぞという場面」で、ことごとく相手の強打者を抑えた印象が、当時のパ・リーグの戦いのなかに色濃く残っている。

 その後、永射氏のように腕を下げ、力のあるボールを投げる”対左打者用”の投手は何人もいたが、真の意味で永射氏を彷彿とさせる投手は出ていない。

「とにかく早く、簡単につくりたいと思っているんですよ。フォームも固まっていないのにすぐ一軍で投げさせて……もうちょっと我慢して使ってやれば5、6年は持ったのに。僕が一軍で結果を出し始めた頃も『永射のマネをさせろ』とほかのチームもやり始めた。でも、ものにならなかった。僕のところに直接アドバイスを求めてきた選手もいたけど、『とにかく走って、下半身を鍛えないとこの投げ方はできない。そこを省くと、今年は成功しても短命で終わるよ』と。そんな話をすると、誰も聞きにこなくなった」

 小柄な体からしばしば発せられる強い言葉が、時間をかけて築き上げた自らのスタイルへの自負心を伝えているようだった。この志と精神力の先にあった、あの投球フォームとあのボール。”第2の永射保”が生まれなかった理由がわかった気がした。

 永射氏が亡くなったのは6月24日。実はその前日の”6月23日”は、永射氏にとって忘れることのできない日だった。

 1982年、パ・リーグがまだ前・後期制だった時代。前期の優勝を争っていた西武と阪急が西宮球場で大一番を迎えた。そんな大事な試合で、西武の広岡監督が先発マウンドに送ったのが永射氏だった。狙いは、福本豊、加藤秀司、ウェイン・ケージの1、3、5番の左打者を抑えるためで、「チーム内でも、僕を含めて4人しか知らなかった」という奇策だった。

 結果は7回途中4失点(6回までは1失点)に抑え、試合も11対4で西武が快勝。これで前期の優勝を決めると、プレーオフ、日本シリーズも制覇。球団創設4年目で初の日本一に輝いた。

「僕らみたいな投手はチームが勝ってこそ。そこでどんどん価値が上がるんですよ」

 永射氏にとっても忘れることのできないあの1日。永い眠りにつく直前、35年前の”快投”を思い出したのだろうか。