「みんなからビックリされますよ。それはそうですよね、大学、社会人と外野をやっていて、ピッチャーなんて8年もやっていな…

「みんなからビックリされますよ。それはそうですよね、大学、社会人と外野をやっていて、ピッチャーなんて8年もやっていなかったんですから」

 香川オリーブガイナーズの大型右腕・秀伍(しゅうご)はそう言って、照れ臭そうに笑った。


大学、社会人時代は外野手としてプレーしていた香川オリーブガイナーズの秀伍

 アマチュア野球ファンの間では「高島秀伍」の名前のほうが通りはいいだろう。桐蔭学園、東洋大、セガサミーとアマチュア野球のエリートコースと言っていい経歴を歩んできた。社会人2年目には日本選手権に7番・レフトでスタメン出場して活躍。しかし、3年目となる昨秋、高島はチームから引退を勧告される。

 すでに25歳。社業に専念するにはいい頃合いのように思えた。しかし高島のなかには、プスプスとくすぶるものがあった。そして、チームメイトからも気になる言葉を掛けられていた。

「ピッチャーでいけるんじゃね?」

 試しにブルペンで投げてみると、140キロ台前半のスピードが出た。周囲からは独立リーグのトライアウトを受けてみたらどうかと勧められた。

「ピッチャーとしてやりきった感がなかった。あきらめきれなかったのかもしれないですね」

 桐蔭学園中時代はエース。高島自身「自分のピークでした」と語るほど無双の投球で、全国大会(全日本少年軟式野球大会)で準優勝を飾っている。しかし、高校では腰や足首に故障が相次ぎ、投手としては不完全燃焼に終わっていた。それでも、25歳の社会人外野手が投手として独立リーグに挑戦することは、高島自身の言葉を借りれば「ギャンブルでしかない」ことだった。

「めちゃくちゃ悩みましたよ。給料や将来のこと。でも、みんなが応援してくれていて、『どっちにいったら喜んでもらえるかな?』と考えたこともありました。悩みに悩んで、最後は自分で決めました」

 そして、高島はひと呼吸置いてから「結婚していたら絶対にできませんよ」とおどけてみせた。

 四国アイランドリーグのトライアウトはセガサミーのユニフォームを着て受験した。自信はなかったが、140キロ台前半の球速が出て、見事に合格。登録名を「秀伍」として、25歳の新人投手が誕生した。

「8年ですべて忘れていました。試合で投げる体力がなくて、最初はキツかったですね」

 投球フォームはサイドスローに近いスリークオーター。だが、本人は「上から投げているつもり」だという。ストレートの最速は150キロまで到達したが、本人がもっとも自信を持っているのは、打者の手元で鋭く変化するスライダーだ。

「いいときはスライダーで141キロまで出ました。自分にとっては一番の武器ですね」

 6月21日には四国アイランドリーグ選抜の一員として、プロ野球(NPB)の二軍混成チーム・フューチャーズとの交流戦に登板。1回を投げ、失策や野選も絡んで3点を失ったが、高島に落胆はなかった。

「今の自分の実力ではこんなものかなと。納得のいくボールもありましたし、真っすぐで三振も取れたので。レベルの違いはそこまで感じませんでした」

 チームの指揮官・西田真二監督は高島をこう評する。

「トライアウトを受けにきたときから強い球を投げていました。投手としてのブランクが長かったので、投げるスタミナとコントロールが課題でしたが、5月くらいから先発もこなせるようになって、だいぶ良くなってきました。もともと身体能力は高いし、伸びしろもある。年齢のこともあるけど、プロに行くチャンスはまだありますよ」

 当初は野球人生をつなぐために四国へとやってきた高島だが、今やNPBに手が届く位置にいる。「不思議っすね」と笑いながらも、高島は「絶対にNPBに行きたい」と強い口調で決意を語った。

「たぶん今年がラストチャンスだと思うので。コントロールを気にしていたらピッチングが小さくなってしまう。腕を強く振る持ち味を失わずに、真っすぐのキレを求めていきたいです」

 高島はエリートコースからの独立リーグ挑戦だったが、徳島インディゴソックスに所属する右腕・伊藤克(いとう・すぐる)は対照的な道を歩んできている。なにしろ、伊藤は高校に行っていないのだ。

「行きたくないから『行きたくないです』と言いました」

 伊藤はこともなげに当時を振り返る。神奈川・相模原シニアでは中学2年からエースを務め、3年時には最速142キロを計測。強豪校からの誘いも受けた。しかし、「野球はもういい」と未練はなかった。

「勉強も好きじゃないし、遊ぶのが好きなので。それなら自分で稼いで生きていこうと思いました」

 中学を出て、すぐ建設会社に就職。周囲は「もったいない」と嘆いたが、伊藤は「オレはオレ」と頑なだった。

 しかし、2年も過ぎると遊びにも飽きてきた。野球をやめたことに後悔はなかったが、伊藤は自身の日常に疑問を覚え始める。

「朝起きて、仕事行って、飯食って、寝る。毎日同じことの繰り返しで、刺激がありませんでした」

 生活にハリを求めた伊藤は自分に何ができるか考えた末、野球に戻ってくる。18歳で硬式クラブチーム・EMANON.B.B.C戸塚に入団した。

「最初は体が動かなくて、すぐに筋肉痛になったりしました。1年目は仕事の都合もあってなかなか練習に参加できなかったんですけど、2年目から土日を休めるようにシフトを組んでもらって練習に出られるようにしました」

 平日も仕事が終わった後に自主練習に励み、もはや遊ぶ時間などなくなっていた。伊藤が「それくらいやらないとダメだ」と取り憑かれるように練習した理由は、「独立リーグに挑戦しよう」という新たな目標ができたからだ。

 20歳の秋、四国アイランドリーグのトライアウトを受験。緊張のため体が動かず、納得のいく出来ではなかったが、ドラフト8位で徳島に指名された。

 高校野球経験がない、中卒の独立リーガー。どうしても「エリートに負けじ魂をむき出しにする雑草」というストーリーを想像したくなるが、伊藤からはそんな気配は微塵も感じられない。

「学歴も経験も、僕よりも上の選手ばかりなので、その点ではプレッシャーがなかったですね。ダメならダメでそれまでなので、怖いもの知らずというか……」

 同年齢のプロ野球選手には、甲子園で活躍した安樂智大(楽天)や高橋光成(西武)らがいる。しかし、彼らに対する対抗心は伊藤にはない。「自分は自分」。その点では、中学で野球をやめた頃からぶれていない。

 シーズンが開幕すると、伊藤の存在は意外な形でクローズアップされた。今季、高知ファイティングドッグスに加入していたマニー・ラミレスから、伊藤は来日初本塁打を浴びたのだ。

「マニーは雰囲気が違いました。どこに投げていいのかわからない感じでしたね。ホームランを打たれてしまいましたけど、いい思い出としてとらえています」

 そんな伊藤だが、独立リーグ1年目にして獅子奮迅の働きを見せている。12試合に登板して3勝1敗、防御率はリーグトップの1.09と安定した投球でチームの前期優勝に貢献。5月15日の愛媛マンダリンパイレーツ戦では自己最速の147キロを計測した。

「体のキレとかバランスがかみ合っていて、『今日は(ボールが)いってるな』と感じていたら、147キロが出ました」

 チームの同期のなかには横芝敬愛から入団し、最速150キロの快速球を武器にプロスカウトから熱視線を浴びる伊藤翔もいる。これから秋にかけて、徳島の「ダブル伊藤」の存在はよりクローズアップされていくだろう。伊藤克は言う。

「もう、そこ(NPB)しか狙っていません。そこで活躍することが目標です。自分がアピールできるのは向かっていく姿勢だけなので、そこを見てほしいですね」

――もし野球がなかったら、今頃どうしていたと思う? と聞いてみた。すると、伊藤は微笑して「ただ仕事をして、平凡な毎日を送っていたと思います」と答えた。同級生が高校野球に明け暮れていた時期、伊藤は会社員として毎日を過ごしていた。その時間は回り道だったのだろうか? それとも……。

「遠回りだったかもしれませんが、他の人ではできない経験ができました。マイナスですけど、プラスに考えています」

 25歳にして投手に転向した高島秀伍と、高校野球経験のない中卒の右腕・伊藤克。もし独立リーグがなければ、彼らの野球人生は違った形を迎えていただろう。そんな2人が、今や夢に手が届く距離まで近づいている。独立リーグという世界には、そんな奇跡的な人生模様が広がっているのだ。