この顔にピンときたら、相当な川崎フロンターレ通だ。ボルシア・ドルトムントは今週末に行われるバイエルン・ミュンヘンとのラ…

 この顔にピンときたら、相当な川崎フロンターレ通だ。ボルシア・ドルトムントは今週末に行われるバイエルン・ミュンヘンとのライバル対決「デア・クラシカー」に向け、かつてフロンターレの背番号10、そしてドルトムントの背番号7を背負ったブラジル人MFのインタビューを公開している。

 もう20年以上も前のことだから、若いファンにとってはまったく見たことのない選手であるかもしれない。1999年に、当時J2を戦っていた川崎フロンターレにやってきたブラジル人MF。その名をティンガといった(松本育夫監督は、「チンガ」と正しく発音していた)。

 ブラジルの名門で、当時の川崎とまったく同じ柄のユニフォームだったグレミオからローンで加入。わずか1年間のプレーだったが、24試合出場8得点という記録を残して、クラブのJ1昇格に貢献した。

 1年でブラジルに戻ったが、数年後にはポルトガルのスポルティングへと移籍。すぐに母国に戻ったが、2006年にはボルシア・ドルトムントへと移籍した。

■「W杯のようにバイエルン戦に備えた」

 ボルシア・ドルトムントで、ティンガはいきなり強い印象を残した。バイエルン・ミュンヘンとのデア・クラシカーで、決勝点を挙げたのだ。ドルトムントで4シーズンプレーし、113試合に出場することになったのは、そのゴールの影響も大きかったかもしれない。

 2006-07シーズン、ボルシア・ドルトムントは9位でウィンターブレイクに突入。率いていたベルト・ファン・マルヴァイク監督は解任と、散々な状態だった。

 ウィンターブレイク明けの初戦も厄介だった。バイエルンをホームに迎えることになっていたのだ。ファン・マルヴァイクの後任となったユルゲン・レバー監督にとっても、チームを預かって初めてのゲームだった。

 ドルトムントがYouTube公式チャンネルで公開したインタビュー動画で、ティンガが当時を振り返っている。

「新監督が来たばかりだった。当時、僕らはあまり調子が良くなかったんだ。あまり自信がない時には、バイエルンとの対戦がずっと難しくなるものなんだ」

「まずはバイエルンとの対戦が、いかに重要かということを学んだ。ワールドカップに出場するかのように準備をしたよ」

■ティンガに訪れた天国と地獄

 難しい状況で、ティンガらはバイエルンと対戦した。幸先良く開始12分に先制したが、ドルトムント、特にティンガにとっては最悪の瞬間が訪れる。バイエルンが長いFKを蹴り込んできた際、ティンガはマークしていた選手を抑えきれず、それどころか頭をかすめたボールが相手選手に渡り、“アシスト”してしまう格好になったのだ。

「白状すると、あの瞬間から試合の緊張感がとても重く僕にのしかかってきた」

 さらにはハーフタイムの前に逆転を許してしまう。ハーフタイムには監督が指示を飛ばしたが、ティンガの頭には入ってこなかったという。

「起きてしまったことは変えようがないと、自分に言い聞かせていたんだ」

「僕はもっとやらなければいけなかったし、改善しなければいけなかった。自分で自信を膨らませようとしていたんだ」

「監督に与えられた戦術的役割のことは、あまり頭に入らなかった」

 だが、確かにティンガのプレーにはやる気がみなぎり、チームメイトにも伝染する。ドルトムントは57分に同点に追いつき、その2分後、ティンガに歓喜の瞬間が訪れる。左CKのこぼれ球を蹴り込み、逆転に成功したのだ。

■「得点するような気がした」

「普段はボックス内には入らない。CKの時は、ボックスの外にいるんだ。スコアは2-2で、僕が得点するような気がしていたんだ」

「どの選手も僕より大きかったけれど、ゴールを奪うだろうと感じていた。だからボックス内に入った。どうしてかボールが来て、僕が決めたというわけさ」

「あの時の気持ちは、しっかりと覚えている。自分のミスを穴埋めできたんだからね」

「ゴールの後の歓声はすごかった。ものすごい騒ぎだったね」

 こうして、ティンガは今もドルトムントのファンの心に残り続ける。今週末の試合でも、歴史に残る瞬間が訪れることだろう。

 ちなみにティンガは、「多摩川クラシコ」と名付けられる前の1999年のFC東京との対戦でもゴールを挙げている。

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