岩田稔インタビュー(後編)インタビュー前編:岩田稔が明かす大阪桐蔭が強い理由>>「命がけでやっているのか!」 元阪神の岩…
岩田稔インタビュー(後編)
インタビュー前編:岩田稔が明かす大阪桐蔭が強い理由>>
「命がけでやっているのか!」
元阪神の岩田稔が大阪桐蔭時代に西谷浩一監督からそう怒鳴りつけられたのは、2年夏の大阪大会を控えた練習試合のマウンドだった。
「自分としては必死にやっていたけど、それが結果として出ていなくて。フォアボールを連発してやられるとか、エースとして不甲斐ない投球内容に西谷先生がものすごい剣幕でマウンドに来られて......」
お、マジか──。約20年前の当時、監督が叱咤するのは決してあり得ない行為ではなかったが、岩田は驚きを隠せなかった。少し経って正気に戻ると、指揮官の言葉が響いてきた。
「そんな言葉は普通出てこないですよ。西谷先生は命がけで僕らに野球を教えてくれていたということですね。『もっとちゃんとせな』っていうのはやっぱり感じました」
岩田は大阪桐蔭で過ごした時代について、「とにかくしんどい3年間だった」と振り返る。今や高校球界の押しも押されもせぬ盟主だが、当時はまだ黎明期だった。岩田や中村剛也(西武)、西岡剛(福岡北九州フェニックス)ら、のちにプロで高く羽ばたく選手たちが黙々と腕を磨いていた。

16年間のプロ生活で通算60勝をマークした岩田稔
まさかの闘病生活
マウンド上で野球への覚悟を問われた半年後、岩田は人生の岐路に立たされた。1型糖尿病を発症したのだ。甲子園を目指していた左腕投手は突如、入院して闘病生活を強いられることになった。
岩田が仲間の輪を外れて3年春を迎える頃、チームはセンバツ出場の当落線上にいた。命運は神のみぞ知るが、晴れ舞台に備えてしっかり練習しておかなければならない。
チーム練習が終わった夜9時か10時頃、ユニフォーム姿の西谷監督が連日見舞いにやってきた。差し入れはダンベルやボール、チューブ......。
「ちゃんとやっておけよ」
エースにそう言葉をかけ、指揮官は帰っていった。看護師たちにケーキを差し入れ、時間外でも病院に入れるようにしてもらうような気遣いの人だった。
「西谷先生は教師もやりながら監督もして、スカウトにも行って、いつ寝てるんだろうと......(笑)。僕らが高校生の時は、勉強ができるクラスの社会科の授業も行なっていましたからね。本当に野球が好きで、人を育てるのが得意な方ですね」
西谷監督や周囲に支えられ、岩田はグラウンドに戻った。だが、3年夏は腰の故障で投げられず、1型糖尿病を理由に内定先の社会人チームから取り消しを食らう。高校球児にとって地の底に突き落とされるような経験だったが、岩田は前を向いた。
「絶対に見返すという気持ちが強くて、親にお願いして大学に行かせてもらいました。行かせてもらっている理由が理由だけに、途中で投げ出すことなんてできない。絶対その会社よりいいところに就職するって心に決めたので、4年間頑張れたというか。その土壌をつくってくれたのが大阪桐蔭だと思うし、あの厳しい練習に耐えてきたからこそできたものだと思います」
当時の高校野球ではPL学園が頂点に君臨し、大阪桐蔭は背中を追いかける存在だった。目標は打倒PLを果たしての甲子園。晴れ舞台を目指し、ハードな練習に明け暮れた。その原動力は、野球が好きという気持ちだった。岩田が回顧する。
「みんな、甲子園に出たいのは当たり前じゃないですか。なかには縦社会に負けて野球をやめる子もいますけど、桐蔭ではレギュラーになれないのにずっとバットを振っているヤツもいましたね。それはたぶん、ただただ野球がうまくなりたいからだと思う。先輩がそういう面を見せてきているから、後輩からもそういう選手は育っていくと思うんですよね。いま思えば僕も毎日、時間さえあればシャドーピッチングとか、何かしらやっていましたね」
1型糖尿病の希望の星になりたい
大阪桐蔭で野球選手としての土台を築いた岩田は卒業後、西谷監督の母校でもある関西大学に進んだ。大学4年間で最速151キロを投げるまでに成長し、2005年希望入団枠で阪神に入団する。社会人野球を飛び越え、プロの世界に足を踏み入れた。
「1型糖尿病の希望の星になりたい」
入団会見でそう宣言したように、自分が道を切り開きたいという思いがプロでの原動力だった。岩田自身が高校時代に発病した際、「もう野球できへんのかな」とどん底に落ちたが、再び目標に向けて走り出すことができたのはプロ野球選手による支えが大きかった。同じ病気を持ちながら巨人やメジャーリーグで活躍したビル・ガリクソンの著書を読み、岩田は前に進むことができた。
「ガリクソンの本を読んで『俺もできるわ』という思いにさせてもらいました。世の中には1型糖尿病患者の子もいるけど、主治医から『阪神の岩田ってヤツがプロ野球で活躍しているように、自分も何でもできると思わせるような存在にならないといけない』と言われました」
岩田は37歳まで現役生活を続け、200試合で60勝82敗、防御率3.38という成績を残して昨季限りでユニフォームを脱いだ。2009年には日本代表としてワールド・ベースボール・クラシックに出場、2014年には日本シリーズの舞台にも立っている。2013年には糖尿病患者に対する慈善活動が評価され、若林忠志賞という栄誉にも輝いた。
「タイガースに入った時に『1型糖尿病の希望の星になりたい』と言って、その言葉に負けないようにやってきました。現役の16年間で、ちょっとはそれを証明できたと思います。1型糖尿病は、何かをあきらめる理由にはならない。いろんなスポーツをできるし、自分のやりたいことをやったほうが人生も楽しいじゃないですか。そのことをこれからも伝えていきたいですね」
岩田はプロ入り直後、血糖値をコントロールするインスリン注射を人目に隠れて打っていたが、あえて人前で行なうように変えた。自分を包み隠さず表すことで、世の中の認知度も高まっていくからだ。
「自分が闘病中だと言えない人も中にはいます。そういう人たちが、普通に暮らせる世の中にしていきたい」
高校2年の夏、西谷監督に野球への覚悟を問われ、自分の目指すものを再確認した。そうして人一倍の努力を続け、1型糖尿病にも負けずに夢の世界にたどり着くことができた。
だからこそ同じ病気に苦しむ人たちに、自身の体験を伝えていきたいと岩田は思っている。
おわり
一部敬称略
プロフィール
岩田稔(いわた・みのる)/1983年10月31日、大阪府生まれ。大阪桐蔭高から関西大を経て大学・社会人ドラフトの希望枠で2006年に阪神に入団。3年目の2008年に10勝を挙げ先発ローテーションに定着。巧みな投球術で打者を翻弄し、2009年にはWBC日本代表メンバーに選ばれ、世界一に輝いた。