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連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第9回
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2005年10月29日、神宮第二球場。早実はセンバツをかけた秋季東京大会の準決勝で日大三と対戦した。斎藤佑樹は夏にホームランを打たれた田中洋介を4打数ノーヒットに抑えるなど、2−0で日大三を完封。早実が東京大会の決勝に進出する。

気迫の投球で東海大菅生を下し、東京都大会を制した早稲田実業の斎藤佑樹
宿敵・日大三に完封勝利
夏のコールド負けから3カ月が経っていました。秋の東京大会、ブロック予選を勝ち抜いた僕たちは世田谷学園、國學院久我山、堀越を下して準決勝に進みます。そこでふたたび三高(日大三)と対戦しました。
秋季大会に入るまでは、2、3段階のレベルアップが必要だと思って、いろんな準備をしてきましたが、大会に入ってからは「今、自分が持っているものでどうにかしよう」と考えるようになりました。夏、三高に負けた時には全部の球を力いっぱい振りきられている感じがしたので、とにかく1、2の3でフルスイングさせないよう、インコースへ投げきる練習をしてきました。三高のバッターを抑えるためには、フルスイングさせないこと。そのためにはアウトコースを遠く見せなくちゃなりません。そうすればフルスイングされることはない。だからインコースを攻めようと思ったんです。
あの日は立ち上がりからいいボールがいっていました。キャッチャーの白川(英聖)がインコースとアウトコースをうまく散らすリードをしてくれていましたし、変化球もよかった。2回に3者連続で三振を取って、その後もいいリズムで投げることができました。7回にワンアウト3塁とされた時、そこで牽制球を投げてランナーを刺したんです。
あのプレーは大きかったですね。あの3塁牽制は、夏の大会が終わってから僕らで考えて開発したプレーでした。3塁にランナーがいるとき、サードの小柳(竜巳)がベースにつかない。で、僕とのアイコンタクトで『次に牽制行くぞ』と伝えておいて、僕が足を上げてバッターへ投げる......と思いきや、すかさず小柳が3塁に入って、僕がピュッと3塁へ投げます。そこで小柳がバシッとランナーにタッチ、アウト! 練習どおりのこの牽制はあの秋、何度もうまくいきました。
結局はかなりの球数を投げましたが(142球)、それでも三高を完封して(2−0)勝つことができました。夏は100ある力が80出たのに、打たれてしまった。おそらく100が出たとしても打たれていたと思うんです。だったらまず、その100自体を大きくしないと勝てないと思って、秋には100を120にできたような気がします。目の前の三高をやっつけて、自分が取り組んできたことは合っていたと思いました。
ただ、三高に勝ってもセンバツ出場が確定したわけではありません。あの頃、東京に2枠が割り当てられることはありましたが、決勝の戦い方次第でどうなるかはわからない。そういう意味では三高に勝った余韻に浸る間もなく、決勝を勝って甲子園出場を確実にしたいと、そっちのほうに気持ちがいっていました。
悲願の都大会制覇
決勝の相手は東海大菅生です。試合開始から僕たちは相手の右ピッチャー、アンダーハンドの薦田(和也)投手を打ちあぐんだんですけど、僕が4回にレフト前へ2点タイムリーを打って先制します。
その後、追いつかれて......あの試合、僕、途中で代わったんでしたっけ。ああ、そうだ、途中で握力がなくなって「ヤバい、手が痺れてきた」って感じになったんだ。で、ピッチャーは関本(雷二)に代わって、僕はライトへ入りました。そうしたらノーアウト満塁のピンチになって、不慣れなライトを守る僕の前に、何でもないフライが飛んできたんです。それを僕が捕れなくて、そのせいで8回表に1点を勝ち越されてしまいました。
でも関本がそのあとをしのいでくれて、8回裏、小柳が同点タイムリー、代打の神田(雄二)が犠牲フライを打って、早実が4−3と逆転します。で、9回表、僕はもう一度、マウンドへ上がりました。
ベンチ裏でマッサージをしてもらったら、けっこう痺れが回復して、和泉(実)監督に「投げられるか」と聞かれたので、「行けます」と......最後はインコースへ真っすぐを投げて、空振り三振。4−3で勝って、優勝です。いやぁ、あれはメチャクチャうれしかったですね。
思えば、その後に夏の甲子園を決めた時もうれしかったんですけど、あの秋に東京で勝って、春の甲子園をほぼ決めた時のほうがうれしかったなぁ。優勝の瞬間、さすがにセンターのほうは向いていなかったと思いますけど、ファーストのほうを向いてガッツポーズした覚えがあります。
1年の夏、2年の春、夏と叶わず、最上級生になって、ようやく届いた甲子園。それこそ、あの時の甲子園に対する執念は自分でもすごかったと思います。少なくとも2年の夏までにはなかった「自分にこういう感情があったのか」と驚くほどの執念......絶対に甲子園へ出てやる、みたいな執念は、準決勝の三高戦の時にも、決勝の東海大菅生の時にも僕のなかにありました。
最後、右手が痺れて握力がなくなっても、絶対にボールを押し込んで、狙ったところに投げてやる、みたいな気持ちになったのは初めてだったかもしれません。それまでの僕は「野球ってスマートにやったほうがいいじゃん」と思っていたのに、それとは真逆の感情ですよね。最後、この1球、ここを自分で本気になってつかみにいかなければ、甲子園なんて出られないんだぞ、ということをものすごく感じさせられた大会でした。
田中将大との初対決
それは2年の夏にメッタ打ちを喰らって負けた悔しさもあったからだし、最後、相手の勝ちたいという気持ちをすごく感じたから、ということもあったかもしれません。思えば三高戦で3塁へ牽制してアウトにした時も、相手のランナーが子どものように暴れてたんです。「今の、ボークだろ」「絶対にセーフだ」って、すっごく悔しがっていて、それを見た時に、これだけの熱量を僕らは抑え込まないと勝てないんだなということをすごく感じました。
僕が菅生の薦田投手からタイムリーヒットを打った時もそうでした。彼はスライダーがいいピッチャーなのでスライダーを張っていたんです。その時、僕はタイ・カッブ型のグリップが太いバットを使っていたんですけど、それを短く持って、逃げていくスライダーを叩こうとつま先重心で構えていました。そうしたら、そこへシンカーが来た。踏み込んで打ちにいっているところへ膝元に沈んでくる球が来たのに、瞬時にクルッと回ることができたんです。
あれができたのは、僕のほうに絶対にバットに当ててやるという執念があったからだと思います。それは、ケンカじゃないけど、プレー以外のところでも相手を圧倒するくらいじゃないと、この空気に呑まれてしまうという、そんな緊張感のある雰囲気が生み出したものでした。
僕たちは秋の東京大会で優勝してセンバツへの出場をほぼ確実としましたが、同時に東京代表として明治神宮大会への出場権も獲得しました。初戦、東海大会で優勝した岐阜城北に勝って(11−3、8回コールド)、準決勝で駒大苫小牧と初めて対戦します。
2年連続で夏の甲子園を制覇していた駒大苫小牧には田中将大がいました。その試合、先発は田中じゃなかったんですけど(岡田雅寛)、僕たちが初回に2点、4回にも1点を追加して、3−0とリードします。その回の途中から、田中がマウンドに上がりました。その田中がすごかった。
とにかくバットに当たらないんです。ほとんどが三振でした(17個のアウトのうち、13個が三振)。試合後に乗ったバスのなかで、和泉監督が「あそこに勝てないと甲子園で優勝できねえぞ。どうやって勝つ?」と聞いてきたので、僕はすかさず「1対0です」と答えました。
そうしたら監督も「お、そうか、俺も1対0なら勝てると思う。1対0を目指して頑張ろうや」と......実際、あの試合は夏の三高に負けた時に比べたら、敗北感はそんなになかったんですよね。本間(篤史)にホームランは打たれましたが、それ以外に打たれた感じはあんまりなかった。
最初はこっちがイケイケだったのに、途中からシュンとなってしまったのは、田中君が出てきたからです。試合が終わった時には「完封できない相手じゃないし、1点をとれない相手じゃない、でもとれるのは1点だ」と本気で考えていました。その日から、「駒大苫小牧に1対0で勝つ」ことが、僕の頭のなかを占めるようになりました。
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秋の東京大会で日大三に勝って、明治神宮大会で駒大苫小牧と戦ったことで、斎藤には初めて全国制覇への道筋が見えた。そして2006年春、早実は18年ぶり18度目のセンバツ出場を決める。斎藤がついに甲子園のマウンドに立つ。
(次回へ続く)