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連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第8回
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高2の夏、斎藤佑樹は早実の背番号1を託された。3年の高屋敷仁ではなく2年の斎藤に1番を背負わせた理由を、和泉実監督は「斎藤と高屋敷の関係を逆転させることで、斎藤の自覚と高屋敷の悔しさから生まれる化学反応に期待した」と話していた。

2年生で早実のエースになった斎藤佑樹だったが...左は主将の武石周人
芽生えた背番号1の自覚
化学反応ですか......どうなんでしょう。自分ではわかりませんが、でも今となっては、やっぱり(和泉)監督は僕たちのことをよく見てくれていたんだなと思います。そもそも僕は反骨心というものがあまりないというか、表に出すのが苦手なんですよ。悔しくて何かをやってやろうとか、絶対に見返してやる、みたいなことはあんまり感じないです。
でも高屋敷さんにはきっとそういう反骨心があったんだと思います。だから1番を僕に、というのは、「なるほどな」と思いました。反骨心はなくても、僕にも1番の自覚は芽生えます(笑)。僕が東京の夏をひとりで投げ切って、甲子園をつかみ取るんだという使命感は持っていました。
高2の夏は......完封した準々決勝(日野台戦)の記憶はあります。神宮第二球場での試合は日曜日でお客さんがぎっしりだったんじゃなかったかな(2005年7月25日)。のちに監督は「初戦(3回戦)の拓大一、(5回戦の)東海大菅生との試合はダメなほうの斎藤が出た」と話していたそうです。「立ち上がりはいい感じで投げているのに、突然、崩れるんだよ」って......でも僕はその2試合でどんなピッチングをしたのか、まったく覚えていません。
昔から忘れたい記憶は自然と消すことができるんです(笑)。だからいいピッチングをした日野台との試合は何となく覚えています。ストライク先行でテンポよく投げられた。三振もとれて、ホームランも打たれなかった(8ー0、7回コールド)。
監督は「今のおまえが持っているあらゆるものが出せたら、どんな相手でもこのくらいのピッチングはできるんだよ」と言ってくれました。僕も日野台だろうと三高(日大三)だろうと関係ないと思っていましたし、なにより自分自身がいい状態で準決勝に進むことができたので、三高を抑える自信はありました。
まさかのコールド負け
でも、打たれてしまいました。
たしか、あれは立ち上がりだったと思うのですが、インコースを(2番、セカンドの)中山(怜大)さんに叩きつけられて、それがサードの頭を越されるヒットになりました。アンラッキーだと思う反面、叩きつけて内野の頭を越えるワンバウンドの打球を打てるパワフルなバッティングにも驚かされました。
その直後、(7番、ファーストの)田中洋平さんにホームランを打たれたのかな。失投と言われればそれまでかもしれませんが、僕としてはインコースにちゃんと投げきっていたんです。でも、それをうまく捌かれて......攻め方はよかったはずです。でも打たれたということは、そもそもの自分のボールに力がなかったんだということを痛感させられました。
5回には(9番)ピッチャーの大越(遼介)さんにも3ランホームランを打たれて、0−8になってしまいます。あの3ランも、力のある高めの真っすぐを投げられたと僕は思いました。にもかかわらず、悪球打ちのような感じでバーンと打たれて、それがホームランになった。あの高めをホームランにされるんだったら、これはもう、僕の力不足なんだと認めざるを得ません。
西東京のなかで言えば、東海大菅生や日大鶴ヶ丘は10回やったら5勝5敗、6勝4敗のイメージの相手です。でもあの時の日大三は「10回やったら10回負けるイメージしか持てない」とチームのみんなが言っていました。
たしかに試合後は「めちゃくちゃ強いチームだな」という印象を持ちましたが、ただあの年の三高は、下馬評はそんなに高くはなかった。試合をする前の僕はたぶん、「勝てるでしょ」くらいの感じで考えていて、そんなに強い相手だとは思っていませんでした。夏の大会に入ってから、試合を重ねるごとに強くなっていったのかもしれません。
この試合、僕は5回を投げきることさえできませんでした。2本のホームランを含む11本のヒットを打たれて、1−8のコールド負け......まさかの大敗です。僕自身は、日野台の試合と同じピッチングをしたつもりです。でも、三高には打たれた。いいピッチングをして手を尽くしたのに、やられた。僕の得意な球をちゃんと投げたのに、それを打たれて負けたんです。自分に力がないんだと思いました。
真っすぐの威力も変化球のキレも、コントロールも......打たれた2本のホームランも含めて、全部の球を力いっぱい振りきられている感じがして、あんな経験をしたことはありません。本当にショックでした。
打倒・日大三への思い
試合後の3年生の引退式で高屋敷さんに「斎藤、おまえだから1番を譲ったのに不甲斐ないじゃないか」というようなことを言われました。「こんなんじゃ、おまえの代でも甲子園には出られないぞ」と......叱咤激励の厳しい言葉だったと記憶しています。
三高との試合は僕が打たれて、5回途中から高屋敷さんに代わったんです。高屋敷さんはその後をきっちり抑えました。エースナンバーを譲った後輩があんな不甲斐ないピッチングをしたんですから、高屋敷さんも歯痒かったんじゃないかと思います。
三高は決勝でも(明大中野八王子に13−2で)勝って、3年連続で夏の甲子園出場を決めました。甲子園でも(高知、前橋商を倒して)ベスト8まで勝ち進んだ(準々決勝で宇部商に敗退)。
高2の夏、自分は甲子園へ行けるぐらいのレベルに来ていると本気で思っていました。でも、そうではなかった。ずっと日本一を目指すとは言っていましたが、日本一になるということは、甲子園でいくつもの強いチームと戦って、それをすべて倒して勝ち抜いていくということです。
いま思えば、あの時の僕にそこまでの覚悟はまだなくて、三高のような目の前に立ちはだかった全国レベルの敵をどうやって倒そうか、ということしか考えていませんでした。しかも、その目の前のたった一校さえ倒すことができなかった......日本一への距離は果てしなく遠く感じられました。ただ逆に言えば、三高を倒せば甲子園へ行ける、とも思いました。だから僕にとって、三高を倒すということは明確な目標になりました。
僕は、どうすれば三高を倒せるのかを考え続けました。なぜホームランを打たれたのか、なぜあんなにフルスイングされたのか。クセがあったかもしれませんし、インコースを攻めきれていなかったのかもしれない。あらゆる可能性をホワイトボードに書き出しました。
自分が今までどういうボールで抑えてきたのか。右バッターには追い込んでからの外角スライダーを振らせた。左バッターならインコースのまっすぐで詰まらせた。そうやって抑えてきたボールと打たれたボールを書き出したんです。どのボールは使えて、どのボールは使えないのかをハッキリさせようと考えました。
ブルペンでは具体的な場面を想定してイメージトレーニングを続けました。ベース板のここに入ったら打たれる、ここなら打たれないと、一球ごとに確認しながら投げ込みます。インコースへしっかり投げきるために、バッターに立ってもらって近めを攻める練習もしました。インコースへ投げきったつもりでもボール1個分、いや半個分、さらに攻め込まなければダメなんだということにも気づきました。
バッティング練習でも、どこのボールならバッターの腕が伸びてフルスイングできるのかを考えながら、ピッチャー目線で打っていました。
新チームになって、春のセンバツへの出場がかかった秋の東京大会が始まります。もう甲子園へ出られるチャンスは春と夏、一回ずつしかありません。何としても秋の大会で三高に勝って、初めての甲子園出場を勝ちとりたい......そう思っていました。
じつはその秋のブロック予選の初戦で、都立足立新田の秋吉(亮)と投げ合っているんです。あの試合のことはよく覚えています。3−1のきわどい試合でした。試合前には秋吉のことは知らなくて、実際に試合をしたら「えっ、都立にこんないいピッチャーがいるの?」と驚きました。正直、ブロック予選の初戦で、相手も都立......簡単に勝てるでしょって思っていたら、とんでもなかった(苦笑)。あの試合で負けていたらセンバツはなかったと思うと、ゾッとしますね。なにしろ、あの秋の僕には三高しか見えていませんでしたから......。
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日大三がベスト8まで勝ち進んだ夏の甲子園で、連覇を成し遂げた駒大苫小牧のマウンドに立っていたのは、斎藤と同じ2年の田中将大だった。しかし打倒日大三を目指す斎藤の視界に、まだ田中は入っていない。それでもこの秋、斎藤は田中と運命的な対峙を果たすことになる。
(第9回へ続く)