肩書きは「一般社団法人 日本障害者カヌー協会 事務局長」。大学卒業後、すぐに独立し服飾関係のお店を営んでいた上岡央子さん…

肩書きは「一般社団法人 日本障害者カヌー協会 事務局長」。大学卒業後、すぐに独立し服飾関係のお店を営んでいた上岡央子さんは、2016年に前会長とともに法人化を目指し上京。パラカヌー支援のため、寝る間を惜しんで日々奮闘する。彼女を駆り立てるものは何なのか?前編では上岡さんの幼少期から協会の法人化まで。

――幼い頃はどんな子供でしたか?

上岡央子(以下 上岡):一歳上に兄がいまして一緒に「男の子の遊び」をしていた女の子でした。親から「女の子」として育てられたというより兄と一緒に人として育てられたイメージです。女の子のオモチャを与えられた記憶がなく、自分で選択したおもちゃが兄と遊ぶための男の子のおもちゃだったって感じです(苦笑)。

 

――では、どんなことをして遊んでいたのでしょうか?

上岡:兄と一緒にスケボーに乗って遊んだり、女の子と遊ぶ時もバトミントンをしたり…基本、外で遊ぶことが多かったですね。テレビゲームとかも「30分だけ」と言われた時代です。リカちゃん人形は持っていなかったけどミニ四駆は持っていました(笑)。

 

――完全に男の子側の遊びですね(笑)。学生時代、スポーツはしていましたか?

上岡:中学は陸上、私の地元は大阪府泉南郡熊取町で大阪体育大学があります。その学校のOBが練習を見てくれました。ただアスリートを引退したばかりの方で練習がメチャクチャ厳しかった(苦笑)。練習メニューが大阪体育大学とほぼ一緒。中学生の練習内容が体育大学と同じですよ(笑)。たしかに中学3年間、記録は伸びましたが練習が厳し過ぎて高校ではさらに上を目指して陸上部へという考えは出なかったです。(苦笑)。

身体を動かすのは好きですけど高校は決まったクラブに属せず友達がいるクラブを転々として運動を楽しんでいました。その後、京都造形芸術短期大学(今の造形芸術大学)に進学したためスポーツから遠ざかりましたね。

大学卒業後は服飾関係のバイトをして23歳で独立、アメリカに年に数回、自分が見立てた服を買い付けて、それを販売するというインポートのセレクトショップみたいな個人経営のお店を13年間続けました。

 

――英語は話せるのですか?

上岡:超簡単な日常会話と価格交渉くらいですね(苦笑)。

――服飾関係の仕事をしていた上岡さんが、どのような経緯でパラカヌーに携わることになったのですか?

上岡:実は母が結婚する前、重度障害児の施設で保母をしていました。私たち兄妹が生まれることで母は施設を退職したのですが、母が関わりを持った障害がある方たちに私たち兄妹は幼少時代から遊んでもらう機会が多くありました。

大人になり私は独立し店舗を構えていました。母は障害福祉関係の仕事に復職しましたが、福祉関係はつねに人材不足。そこで週1,2回手伝うことにしました。それが障害者福祉の仕事に入るキッカケです。

最初は主に移動支援という関わり方です。USJや映画やお買い物に一緒に行く支援です。障害ゆえに切符が購入できない人、一人では電車移動が困難な人、食事を一人で取れない人などがいます。だから出かけないとか家族としか出かけないではなく、サポートがあれば出かけることは可能になります。そのサポートをする仕事をしていました。一緒にいろいろな場所に出かけ、お互いに初めての経験ができてとても楽しい仕事でした。5年間続けて介護福祉士の資格を取りました。

そんな時、私が勤めていた事業所の障害者数名とサポートメンバーで「カヌーに乗りたいよね」という話になりました。何も分からないままコンタクトを取ったのが日本障害者カヌー協会の前会長でした。前会長は「みんなで楽しくカヌーに乗ろうよ」と体験できる機会を作ってくれました。

いつもサポートしていた先天性障害を持つ女性と一緒に初めてカヌーに乗りました。そこで私は車いすに乗っている女性と同じ感覚で初めてのものに触れることができたのです。それまではどうしてもお互い「サポートする側」と「サポートされる側」という外すことのできない関係性がありました。でもカヌーをする瞬間、この関係性を外してお互い一緒の感覚で「初めてのカヌー」を楽しむことができました。水上だと障害者と健常者が同じ立場でいることができる。車いすの「あるなし」に関わらず…カヌーは可能性を秘めているスポーツだと感じました。

その後、前会長に依頼されボランティアで小学校の体験会を何回かお手伝いさせてもらいました。ある時、会長から「日本障害者カヌー協会の事務所を東京で立ち上げるけど手伝ってくれる人がいない」と相談され「だったら私がお手伝いしましょうか?」と。それで2016年11月に上京しました。

当初、任意団体として前会長が1995年に日本障害者カヌー協会を設立し「カヌーを障害者もレクリエーションで遊べる機会を作りましょう」と活動していました。2017年4月に一般社団法人という形で法人化しましたが、イチから前会長と一緒に法人化の手続きをしました。「一般社団法人とNPOの違いは?」「社団法人法とは?」等、とにかく法律を始め様々なことを学びましたね(笑)。

――僕が上岡さんと初めてお会いしたのが、2019年9月東京・海の森水上競技場で行われた日本パラカヌー選手権大会でした。それまでの2年間はどのような活動をしていたのですか?

上岡:2017年4月法人化した後、協会が主催となる合宿を計画しました。それまで選手は、各々練習していましたが、合宿というまとまった練習会がありませんでした。またJPC(日本パラリンピック委員会)を通じてどんな強化活動をしていかねばならないのか?どのようなサポートが必要なのか?提供できるのか?そもそも競技も知らないので強化活動って何??から学びました。そして協会主催として強化活動を実施するための基本的なルールとなる規程類も作りました。また、「この選手は何歳?キチンと地元で練習はできているのか?JPCにどういった内容で登録されているのか?」等、各選手やスタッフの状況の把握。JPC通じた補助金の申請についても色々な種類があって1年の年度で区切られています。その為にも選手の評価をキチンとしなければいけないし、とにかく基本となる「誰の目から見ても分かるルール(規程類)」を作りました。

 

――あっという間の2年間ですね(苦笑)。

上岡:そうなんです、なので最初の2年間、東京観光なんて一回も行ったことがなかったです(苦笑)。浅草もスカイツリーも…。住んでいた場所から電車一本の新宿、そして財団がある虎ノ門付近しかウロウロしたことなかったですね(笑)。土日はイベントをしたり依頼されたり、合宿に行ったり…当時はアスリート雇用の選手がいなかったため、仕事のない土日をメインに合宿をしていました。たまたま空いた土日は関東方面の水面調査というか、車いすでもカヌー利用可能な水面はある等…前会長と一緒に全国車で回っていましたね。

――選手がアスリート雇用を希望する際、資料等を作成し上岡さんがバックアップしていたのでしょうか?

上岡:「アスナビ」他にも色々と企業とアスリートの求人サイトのようなものがあります。そのサイトは選手自身がエントリーできますので、選手たちが自分で見つけてエントリーしていました。推薦状が必要な時だけ、選手からの依頼で準備しました。でも、ほとんどの選手が自分たちで今の所属先を見つけてきました。

将来、パラカヌーだけではプロという形はないしご飯を食べていけるわけではないです。選手たちも家庭があり、今まで一人の社会人として社会生活を過ごしてきた中でアスリートになっています。その生活を奪ってまで「アスリート雇用してメダルを獲りなさい」と言いません。選ぶのは選手自身です。選手の目標がメダル獲得であればもちろん私たちはそれに近づくように支援しますが、「勝つためにこうでなければならない」というものを私たちが勝手に作って押し付けてはいけないと思っています。だから選手には「自分たちで自分たちのことは決めて下さい」と言います。その代わり「選手たちのやりたいことであれば、いくらでも協会はバックアップします」と。選手たちが希望を出して、今のスタイルになっています。もちろん強化の担当は、強くなるための指導をしていくべきですが、私は競技者じゃないので…(苦笑)。

<後編につづく>

上岡 央子/ウエオカ ヒサコ

中学時代は陸上に明け暮れる日々。
その反動で高校では特定の運動部に所属せず。
京都造形芸術短期大学卒業後、23歳で独立し大阪にインポートセレクトショップをオープン。
32歳の時、母から相談され障害者福祉の仕事を週1,2回手伝う。
2016年11月 日本障害者カヌー協会の法人化準備のため上京。
2017年4月 一般社団法人日本障害者カヌー協会設立。

一般社団法人日本障害者カヌー協会WEBサイト
一般社団法人日本障害者カヌー協会 Twitter

 

取材・文/大楽 聡詞
写真提供/(一社)日本障害者カヌー協会