「うれしいですね。野球に関するいろんな経験をしてきている方々じゃないですか。そういった方が高校野球界に多くなってきたのは…
「うれしいですね。野球に関するいろんな経験をしてきている方々じゃないですか。そういった方が高校野球界に多くなってきたのはうれしいです」
恨み節などは一切感じられない、柔らかい声色と語り口で、早鞆高校(山口)を率いる大越基(元・ダイエー)は微笑んだ。

2009年から早鞆高校野球部の指揮をとる大越基氏
近年、高校野球の指導者へと転身する「元プロ野球選手」が飛躍的に増加している。今春のセンバツでは、天理(奈良)の中村良二(元・近鉄ほか)、東海大菅生(東京)の若林弘泰(元・中日)、常総学院(茨城)の島田直也(元・横浜ほか)の3名が、元プロ指揮官として采配を振った。
大越が指揮を執る山口県内では、ダイエー時代のチームメイトでもあった若井基安が高川学園の監督を退任したあとは大越ひとりとなっているが、同じ中国地方内に目を広げると、野中徹博(元・阪急ほか)が出雲西(島根)、山本翔(元・広島)が矢上(島根)の指導にあたっている。
高校野球界に元プロ指導者が増加傾向にある背景には、2013年に実施された、日本学生野球憲章で定められている「プロアマ規定」の大幅緩和がある。1984年に元プロの高校野球指導が認められたものの、「教員としての勤務歴が10年以上あること」という条件が課せられた。1994年に10年から5年に、その3年後の1997年に5年から2年へと段階的に短縮されたものの、「教員免許を取得し、教壇に立つ」ことが大前提になっていた。
しかし、2013年に教員としての勤務歴を求める規定が完全撤廃。プロ、アマそれぞれが実施する研修会に参加し、適正審査を経ることで教員でなくとも高校野球の指導に従事できるようになったのだ。
例として紹介した先述の5名の場合、教員として学校に所属しているのは東海大菅生の若林のみ。ほかは学校職員、学校所在地の地方公務員、会社員など、教員以外の肩書で監督を務めている。
依然としてプロ、アマ間に大きな隔たりがあったなか、指導資格を回復したのが大越だった。2003年にダイエーで現役を退いたあと、翌年に東亜大(山口)に編入し、3年間大学に通い保健体育の教員免許を取得。2007年春から早鞆の教員として教壇に立ち、2年後の5月に学生野球指導資格を得た。
同年秋に監督に就任し、現在に至るわけだが、自身が高校野球の指導者を志した当時に比べ、必要な工程が大幅に短縮された現況に思うところはないか......。そう投げかけた際の返答が冒頭の言葉だった。大越は言う。
「時々聞かれるんですけど、『自分の時代は大変だったのに!』などの憤りはまったくないんです。補足すると、今では(資格復帰のためにNPBが実施する)講習会の講師もしていますし、高校野球界に元プロの方々が増えるのを待ち望んでいた感覚もありました。自分は規定上、2年間指導に携われない時期があって、あの期間があると(指導者を目指す人は)増えていかないと思うんです。大学で教員免許を取って、さらに学校に入って『教諭として2年』。やっぱり大変ですよね」
自身の歩んできた指導資格復帰の道のりを回想し、こう続けた。
「でも、自分にとってはその2年間がよかったと思っています。いろいろな面での準備期間になりました。現行の制度の場合、その準備に充てる時間がないじゃないですか。いきなり指導現場になる。自分の場合は、大学に通った期間を含めて、約5年間、学ぶ時間をつくれた。今は『資格復帰が簡単になった』と言われるけれど、『簡単なほど難しい』とも思うので、違った難しさがあると感じます」
自身が指導現場に身を投じた際に直面した"壁"はなんだったのか。こう質問を向けると、大越は間髪入れずに言葉を紡いだ。
「生徒指導です。ウチ(早鞆)だからこその苦労、進学校なら進学校の悩みがあって、学校によって苦労する、苦しむ部分は違うと思いますが。自分はたくさん生徒指導で失敗しましたし、たくさん頭も下げました。さらに言うと、自分が監督になった当初と比べて、教育現場に求められることや向けられる目も変わっていて、そういったことから来る難しさもある。高校野球は技術指導と並行して、生徒指導を考える必要がある。自分も今でも苦労していますが、いきなり現場を任される方々は、もっと大変だと思います」
現役時代の実績が大きければ大きいほど、指導者として周囲が求めるものも当然大きくなる。自身の経験も踏まえ、こう続けた。
「元プロの監督たちが大変なことのひとつに、『結果を求められる』ことがあると思うんです。"大きな"結果を"すぐ"に求められる。そこはすごく大変だと思います。自分自身のプレーでなくて、指導で結果を求められる。それは私以外の方々もすごく苦労されるんじゃないですかね。私自身も、就任直後はそういった期待を感じていました。今も感じていないわけではないですが、少し免疫ができてきた部分はありますかね(苦笑)」
就任前へと話が戻るが、大越が指導者を志したきっかけ、そして早鞆の監督に就任した経緯はどういうものだったのか。振り返ってもらった。
「現役を引退したあとも、野球に携わっていきたいなと思っていました。じゃあ、どうすればいいのか考えた時、いろいろな野球があるなかで『高校野球』が真っ先に頭に浮かんだんです。自分でもそれがなぜなのかは今でもわからないんですが......。今はもうその考えは変わっているんですけど、最初は『高校野球を指導するために、必要な教員免許を取ろう』という思考でした」
当初は中退した早大への復学を考えたが、「退学から7年以内であれば編入試験を受けられたんですが、それ以上経っていたので、一から受験し直す必要があった」ため、断念。次は福岡県内の私立大を考えたが、すでに願書受付が終了していた。候補が少なくなっていく中、行きついたのが下関市にある東亜大だった。
「保健体育の免許を取れる大学の候補がなくなっていくなかで、福岡からも近い東亜大の存在を偶然知りました。大学側に電話をかけて確認したところ、早稲田時代の単位も引き継げて、2年時編入の形で、3年で卒業できる。それが決め手となり、東亜大に進みました。通学するうちに早鞆の卒業生や野球部OBの方々と交流ができて、『監督をやらないか』となったのが、一番の理由ですね」
余談だが、大越と同時期に教員免許取得のために東亜大に編入、通学していたのが、今では同地区でしのぎを削る仲となった下関国際の監督を務める坂原秀尚だった。なお当時は「研究室が違って交流はなかったが、お互いの存在は知っていた」そうだ。
早鞆に監督候補として着任する話が進む中、大越には迷いがあった。当初は「山口で指導者をやるとは、まったく考えていなかった」からだ。しかし、その迷いは教育実習で母校・仙台育英(宮城)に帰った際に払しょくされた。大越が回想する。
「元々、山口で指導者をするという考えがなくて。プロとして過ごした福岡であったり、母校のある宮城であったり、そういった場所で指導者をやれたらと考えていました。なので、お話をいただいたときに戸惑いはあったんですが、教育実習で仙台育英に行った際に、自分を担当してくださったラグビー部監督の丹野博太先生(2020年度を最後に勇退)から、ある言葉をいただいて、覚悟が決まりました」
その言葉とは「福岡なら知り合いがいっぱいいるだろうし、宮城は当然おまえのことを知っている人がいっぱいいる。それよりも、何も知らない土地で教育を学んだほうがいい。それからどこか違う場所にいくのはおまえの自由だけど、まずは自分が何も知らない、誰も知り合いのいない土地で、いろんな経験をして、学べ」というものだった。大越が続ける。
「誰かに甘えよう、バックアップしてもらおうとは思っていなかったんですけど、丹野先生の言葉がスッと頭に入ってきた。合わせて伝えられたのが『知らない土地でやるとなると相当苦労するよ』。自分もそうだよなあと思ったんですが(苦笑)、恵まれた環境で野球をやらせてもらってきた自覚があったので、飛び込んでみようと決意しました」
先述のとおり、東亜大を卒業し、2007年4月から教員として早鞆へ。2年間は野球部に関われない状況だったが、町ですれ違った地元民から「あんたが早鞆の指導者になっても応援しないから」「母校(仙台育英)でやれよ」と冷たく言い放たれた。もとは3年夏の甲子園で準優勝した「甲子園のスター選手」。そして当時は元プロの高校野球監督が少なく、物珍しかったからこその洗礼だったが、丹野の助言をいきなり身をもって味わった。
指導者資格が復帰した2009年から野球部のスタッフとなり、新チームが発足した秋から監督に。いよいよ指導者としての船出となったが、前途は多難だった。
「最初のほうは自分も強い言葉が多くなってしまっていた。プロの世界が基準になっているから、『なんでできないんだ!』と言ってしまったり。選手は『俺たちはおまえじゃないんだ』という思いが募って、どんどん監督と選手の歯車が合わなくなる。この時は『自分が引っ張って甲子園に連れて行く!』と思い込んでいましたし、とにかく心が荒れていたと思います。選手目線に立つ、選手のレベルに合わせて段階的に指導する感覚は、元プロだからこそ必要だとも今は強く思いますね」
同い年でともにダイエーでプレーしていた鳥越裕介(現・ロッテ二軍監督)や田之上慶三郎(現・ソフトバンク二軍投手コーチ)に年末に会うたびに「おまえ......、相当戦ってるな」と口を揃えたように言われるなど、神経をすり減らしながら指導現場に立ち続けていた。
苦しい日々の先に、甲子園は待っていた。2011年秋の中国大会で4強入りし、中国地方の3校目として2012年春のセンバツに選出された。同校にとって春は初出場、夏を含めても1967年以来の聖地出場だった。
選手時代を含めて23年ぶり、監督として初めての甲子園を経験し、いよいよ上昇気流に乗る......。周囲はそう期待していたが、大越自身の考えは異なっていた。
「対戦相手が智辯学園(奈良)。チーム力を比較すると、15点差、20点差つけられてもおかしくない。地元に帰って罵声を浴びせられるんじゃないか。ネガティブだらけでしたね。そういうことばっかり考えてしまって、戦術どころじゃなかった。相手エースの青山大紀くん(元・オリックス)は絶対打てないと思っていたし、ウチのエースは故障で投げられない。投手陣の様子を見ていた野手陣も『おいおい、これ大丈夫か』という空気が流れていました」
聖地初采配を前にしながら、チームはどん底とも言える状態。そこに救いの手を差し伸べたのが、仙台育英時代の恩師である竹田利秋だった。
「仙台のテレビ局の企画で、試合前日の割り当て練習の会場に竹田先生が来てくれて。カメラが回るなか、1時間半の練習を見て、『今から宿舎行ってもいいか?』と私に耳打ちされたんです」
大越が「え?」と返すと、竹田は「大越これじゃまずい。明日の試合まずい」と返した。
宿舎に着くと、竹田は『大越、オレに2時間くれ』。選手を集めて、優しく「おまえたち緊張してないか? しているものは手を挙げて』と語りかけた。大多数の部員が手を挙げると、「大丈夫。おまえたちの監督は何回も甲子園に出ているし、オレもそれを見ている。明日、苦しくなったら監督を見なさい。監督はそういうこと全部わかっているから」と続けた。
「明日甲子園の室内練習場に入ったら、腹から大きな声で『僕、緊張してます!』と言いなさい」
最後にこう言葉をかけると、最初は強張っていた選手の顔がみるみるうちに笑顔に変わっていった。大越が言う。
「翌日、実際に選手が『緊張してます!』と大声で言ったら、引率の高野連の方も大笑いするくらい和やかなムードになって、いい形で試合に臨むことができました」
試合は2対5で敗戦。エースが故障で先発できない状況、地力の差を考えれば、大善戦と言っていい内容だった。指導者としての甲子園初勝利を逃したものの、頭に浮かんでいた最悪の結果を免れ、ひとまず胸をなで下ろしていた。それと同時に、大越のなかにある感情が芽生えていた。
「『2回目の出場は相当難しいな』と思いながら下関に帰ってきました。1回目の出場は選手に恵まれていただけで、監督の力でも何でもない。試合前の声がけで、指導者として恩師との力の差を知りましたし、力のなさを痛感させられた。この時に『甲子園に出場するからいい指導者』という考えが自分のなかになくなって。選手の心を掴んで、どうやって導いていくか。そこが長けている指導者になりたい。その結果、甲子園に行くのが理想。そう変えていこうと決めたんです」
そこから指導のスタイルを変えていった。練習内容について選手と意見を交わすなど、選手目線に立つことを心がけている。
今春の山口大会でも4強入りするなど、県内で安定した成績を残し続けているが、2度目の甲子園にはなかなか縁がない。ただ、手ごたえも掴んでいる。
「2016年、春の県大会で優勝したチームは、監督の指示をその場で実行するだけでなく、ほかの場面でも応用できる選手が多くいました。大学で野球を続けて、キャプテンを任せてもらえる選手が何人もいたり、なかには『歴代最高のキャプテンだ!』とまで大学の監督に言っていただいたり。そのなかで、今でも忘れられないのが、当時の校長先生からいただいた『こんなにいい生徒を持てたら、教員としてこのうえない幸せだね』という言葉です。この世代のような、これを越えるチームをつくって、結果として甲子園に行きたい。今は強くそう思っていますね」
早鞆では、選手たちが大越を「監督」ではなく、「大越先生」と呼ぶ。「自分は監督じゃなくて『先生』だと思っているので、『大越監督』とは呼ばれたくないんですよね」と笑顔で話し、こう続けた。
「正直、教員はなりたくない職業だと思っていました。さっきも言ったように『野球の指導をしたいから教員になる』のがスタート。でも、実際にやってみると教員の仕事が想像以上に自分に合っていたと感じるし、周囲からもそう言ってもらえるんです。これはプロアマ規定の旧制度があったからこそ気づけたこと。じつは、今は体育よりも保健の授業のほうが好きで。一般生徒と関わる機会が多いし、どう接していくかを考えていくのが楽しいですね」
初甲子園で自軍と相手の戦力差をシビアに分析していた自身の経験も踏まえ、「元プロは、チームの力関係を『見切っている』と思う」と語る。
「プロの環境に身を置いていろんなプレー、チームを見てきている分、『このチームは頑張ってベスト4だな』と見極める目を元プロの人々は持っていると思います。あまり希望的観測を持たないし、その見立ては当たるとも思います」
その指揮官から見て、今年の早鞆はどうか。
「面白いと思っています。けど、もうひとつ殻を破れないと春のベスト4から上には行けない。それが単純な技術とは違う、見えない何か。もしかすると、人間的な幼さだったり、そういうところなのかもしれない。そういったところを突き詰めて変わっていった時、結果も変わってくるんじゃないかな、と」
いよいよ始まる2年ぶりの甲子園をかけた夏、指揮官の目にチームは"理想形"として映っているだろうか。