で、勝者はどっちだ。試合が終わっても勝ち負けがわからない! スコア上はイーブンになっても、複雑な計算方式で勝者と敗者が…

で、勝者はどっちだ。試合が終わっても勝ち負けがわからない! スコア上はイーブンになっても、複雑な計算方式で勝者と敗者が生まれるのがアウェーゴール決着だ。試合前には理解していたつもりでも、試合後、まわりの顔色をそっと窺ったりして。そのアウェーゴール・ルールが終了になりそうだ。それで、サッカーは面白くなるのかつまらなくなるのか――。

■サッカー史に残るバイエルンの敗退劇

 ことしのUEFAチャンピオンズリーグの準々決勝で、前年チャンピオンのバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)がフランスのパリ・サンジェルマンを相手に敗退をしたのは、大きなショックだった。だがそれ以上に、この対戦はサッカー史に残るものになるかもしれない。欧州のクラブカップ戦で、「アウェーゴール」で勝負がついた最後のカードになりそうだからだ。

 バイエルンは4月7日にホームのアリアンツ・アレーナで行われた初戦を2-3で落とし、窮地に陥った。4月13日にパリのパルクデプランスで行われた第2戦は、前半40分に1点を奪ったものの2点目は遠く、1-0で終了。2試合合計得点は3-3となったが、「アウェーゴール・ルール」で連覇への夢を断たれた。

 アウェーゴール・ルールとは、ホームアンドアウェーの2戦制の戦いにおいて2試合通算得点が同点になったとき、アウェーでのゴール数が多いほうを勝利とする、「勝敗決定方法」のひとつである。「アウェーゴールを倍にして計算する」という説明も使われるため、「アウェーゴール2倍ルール」という呼称もあったが、倍にしなくてもアウェーゴールの多寡で簡単に比べられるため、今日では「アウェーゴール・ルール」という表現が一般的だ。

 ではなぜ、バイエルンとパリ・サンジェルマンの「アウェーゴール決着」が歴史的なのか。欧州サッカー連盟(UEFA)は、2019年からの検討の結果、この方式を来季以後のクラブ大会で廃止することを決めたからだ。英国の「タイムズ」紙が5月29日に報じたところによると、UEFAの大会委員会で決定され、理事会の承認を待つだけという。これによって、UEFAは自ら考案し、1965年から56年間使用してきたシステムに終止符を打つことになる。

■新ルールのきっかけはリバプール対ケルン

 誕生のきっかけは1964/65シーズンの欧州チャンピオンズカップだった。準々決勝でリバプール(イングランド)と1FCケルン(西ドイツ)が対戦。ケルンでの第1戦、リバプールでの第2戦はともに0-0の引き分けに終わり決着は第2戦の1週間後に中立地であるロッテルダム(オランダ)でプレーオフでつけられることになった。当時は、2戦合計のスコアが同点の場合は中立地でのプレーオフということになっていたからだ。

 だがこの試合は2-2の引き分け。延長戦では両チームとも得点を決めることができず、準決勝進出チームはコイントスで決められることになった。主審はベルギーのロベルト・シャウト。彼は片側が赤、もう1方が白というプラスチック製のコインを用意していた。赤ならリバプール、白ならケルンの勝ちというわけである。しかし彼が投げ上げたコインは軽すぎたのか、ピッチの芝生の間にはいり、そのまま立った状態で止まった。仕方なく2回目を投げると、こんどは赤が上になって止まった。

「すばらしい接戦を演じた2チームの命運を分けるのに、こんな決定方法があっていいのだろうか」と、『リバプール・エコー』紙から特派されたホレス・イェイツ記者は報じている。

 UEFAが「アウェーゴール・ルール」を採用したのは、翌シーズンからだった。もっとも、前シーズンのリバプール対ケルンは、このルールがあっても「プレーオフ」あるいはコイントスになったのだが……。

■「ジョホールバルの歓喜」後のイランの死闘

 その制度の適用の最初が、1965年の11月に行われた「欧州カップウィナーズ・カップ」の2回戦、デュクラ・プラハ(チェコスロバキア)とホンベド・ブダペスト(ハンガリー)の対戦だった。プラハの初戦は2-3、ブダペストでは1-2と、ともにアウェーチームが勝った。しかしアウェーで3点を取っていたホンベドが、第2戦の90分間終了時点で、延長戦もプレーオフもコイントスもなく、新制度により、準々決勝の権利を与えられたのである。以後、欧州ではこの方式が定着した。

 そしてやがて、他の地域でも、そしてワールドカップ予選など国際サッカー連盟(FIFA)主催の大会でも採用されるようになる。

 1998年フランス・ワールドカップへの出場権最後の1座をかけたアジア-オセアニアのプレーオフは非常に印象的だった。「出場枠0.5」で、地域予選を勝ち抜いても他地域とのプレーオフで勝たなければ出場権が得られないオセアニアの代表はオーストラリア。そしてアジアの代表は、マレーシアのジョホールバルで行われたアジアの「第3代表決定戦」で敗れたばかりのイラン。試合は「ジョホールバル」のわずか6日後、11月22日にイランのテヘランで、そして1週間後の11月29日にオーストラリアのメルボルンで行われた。

 イランは、「ジョホールバル」の前から疲労困憊の状態にあった。11月12日にグループ2位が確定したのを見届けてから14日未明にテヘランをたち、乗り継ぎ便の遅れなどもあってジョホールバルに到着したのは14日深夜。16日に日本と延長戦まで戦ってPK戦入り直前で岡野雅行に「ゴールデンゴール」を許して敗れ、翌日テヘランに戻った。

■衰弱したイランをオーストラリアが蹂躙

 オーストラリアは、ひとつの時代のピークにあった。2トップにハリー・キューエルとマーク・ビドゥカというイングランドのプレミアリーグで活躍する危険極まりないアタッカーを並べ、率いるのはイングランド代表監督も務めたテリー・ベナブルズである。テヘランのアザディ・スタジアム、12万8000人という信じ難い数のサポーター(その全員が男性だった!)の前で、オーストラリアは前半19分にキューエルが先制。前半終盤にイランのホダダド・アジジに同点ゴールを許したが、「1-1の引き分けで十分」とばかりに、後半は無理をせず、そのまま試合を終わらせた。

「ホームでは必ず勝つ」。1週間後の第2戦は、ベナブルズ監督のプランどおりの始まり方だった。メルボルンのクリケット・グラウンドに詰めかけた8万5022人、オーストラリアのサッカー史上最大の観客は、オーストラリアが見事なパスワークとハードタックルでイランを蹂躙するのを見た。1974年のワールドカップ初出場以来、24年ぶりに訪れた出場のチャンス。その決定の瞬間が訪れるのは時間の問題と思えた。

 オーストラリアは洗練されたパスワークで立ち上がりからイランを圧倒。前半32分にキューエルが角度のないところから決めて先制すると、後半3分にはバーに当たって跳ね返ったボールを、1点目のアシストをしたアウレリオ・ビドマーが叩き込み、2-0と決定的な差をつけた。実際のところ、この時間帯までイランは攻撃らしい攻撃を繰り出しておらず、ハーフラインも越えられない状況で、試合展開から見ても勝利は確定したかと思われた。

 午後8時15分キックオフの試合。後半30分、午後10時を回ると、夏を迎えているメルボルンの熱気も去り、すり鉢のようなクリケット・グラウンドのピッチにも涼しい空気が漂い始めた。しかしスタンドの熱気は最高潮に達していた。もう勝利は間違いない。オーストラリアは24年ぶりにワールドカップに行く!

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