5セットマッチで最初の2セットを落とすというのは、どんな気分なのだろう。しかも、ここはグランドスラム決勝の大舞台、相手は日の出の勢いのステファノス・チチパス(ギリシャ)なのだ。【動画】ノバク・ジョコビッチ vs ステファノス・チチパス/全仏…

5セットマッチで最初の2セットを落とすというのは、どんな気分なのだろう。しかも、ここはグランドスラム決勝の大舞台、相手は日の出の勢いのステファノス・チチパス(ギリシャ)なのだ。【動画】ノバク・ジョコビッチ vs ステファノス・チチパス/全仏オープンテニス2021 決勝

ノバク・ジョコビッチ(セルビア)が勝つにはフルセットしかない。あと3セット、ひとつも落とせない。少しでも気を抜いてサービスゲームを落とせば、それが命取りになる。おびえたり、硬くなったりしないのだろうか。遠い前途に絶望し、投げ出したくはならないのだろうか。凡人にはそんなことしか思い浮かばない。

凡人には限らないのかもしれない。状況は異なるが、カレン・ハチャノフ(ロシア)との2回戦でセットカウント1-2と追い込まれた錦織圭は「魂が抜けた」と話している。

「3セット目を取られて呆然としていた。(勝つためには)また5セットを戦うのかっていうのと、『戦いたいか』って自分に問いかけたときになかなか答えが出なかったので。魂が抜けたというか、つらかった」

フルセットに強い錦織でさえ、そんな心境に陥る。それが土俵際の恐ろしさだ。錦織は1-2だったが、ジョコビッチは0-2、しかも第2セットはアンフォーストエラーを連発し、本来の姿からほど遠かった。内輪話で恐縮だが、速報を書く記者は「ジョコビッチ敗れる」の見出しを想定して準備を始めるタイミングだった。

前置きが長くなってしまった。0-2となったときの、ジョコビッチの心の内側の話である。ジョコビッチは記者会見で最初にこう述べた。

「第2セットは、肉体的にも精神的にも少し落ちてしまった。少し疲れてしまい、このセットは彼に支配された。そうして、ロレンツィオ・ムゼッティ(イタリア)との4回戦で2セットダウンしたときと同じように、コートを離れ、別の選手になって戻ってきたんだ。リフレッシュして、第3セットでは早い段階でブレークすることができた。振り抜きが良くなって、勢いは僕の側に移った」

チチパスもまた「別の選手と対戦しているような気がした」と話している。ウェアも着替え、「リフレッシュした」のは分かるが、どう切り替えたのか、この言葉だけではまだ彼の心の中に踏み込めない。

コートを離れた数分間について重ねて聞かれたジョコビッチは、内面と対話したことを明かした。

「正直、僕は声に出して自分に話しかけるということをしてこなかった。自分との会話は頭の中だけで済ませていた。でも、今回は……。自分の中にはいつも2つの声がある。ひとつは『自分にはできない、もうおしまいだ』という声。その声は第2セットのあと、かなり強くなった。そこで僕は、もう一つの声の方を実際、声に出し、『もう無理だ』という最初の声を押さえ込むべきだと感じたんだ。『できるぞ』。僕は自分にそう言い聞かせ、自分を励ました。その言葉を心の中で繰り返し、全身を没入させようとした。第3セットに入ってからは、特に最初の数ゲームで自分の出来が確認できたので、よりポジティブで、より励みになる第2の声に支えられてプレーできた。そこから迷いがなくなった」

メンタル強化のテキストに書いてありそうなプロセスをジョコビッチはこなしていた。ただ、経験と実績の支えがあったにせよ、自身の中にある疑念や不安をこれほど完璧に、しかも、たった数分間で打ち消せるものなのか。ジョコビッチは長年の取り組みの大切さに言及した。

「コート上では、しっかり考えるための時間はあまりない。考えていることはあっという間に消えてしまう。僕は自分のキャリアを通して精神力をトレーニングしてきた。そのときどきの考えに左右されるのではなく、常に中心に戻してバランスを取る、つまり、今この瞬間に目を向けるということだ。それでもグランドスラムの大事な試合で負けたことは何度もある。これは個人競技で、すべては自分次第なんだ。だからこそ、メンタルワーク、メンタルトレーニングはフィジカルトレーニングと同じくらい重要だと考えている。それが報われて本当に良かった」

さらにジョコビッチは、観客席の少年とのエピソードを明かした。試合の直後、19回目のグランドスラム優勝を成し遂げた記念のラケットを手渡された男の子だ。

「彼は試合中、ずっと僕の耳元にいて、特に2セットダウンしたときには僕を励ましてくれた。実際、戦術も教えてくれたよ(笑)。サーブをキープしよう、簡単な最初のボールをねらってラリーを支配するんだ、というように。それがかわいくて、素敵だと思っていた。だから、いちばんふさわしい人にラケットを渡したいと思ったんだ」

こんな声援を励みにジョコビッチは自分を奮い立たせた。ほのぼのとした「いい話」だが、正直に言うと筆者にはジョコビッチの凄味しか感じられない。

視線の隅には、2セットアップとしながら徐々にリズムを崩し、狼狽していく対戦相手の姿があったはずだ。一方で、小さなファンがかわいい声援を送ってくれている。センターコートを心の目で俯瞰したジョコビッチは、世の中すべてが自分のためにあると、自己肯定感を高めていったのではないか。そんなふうに思えてならないのだ。凄味とは、そういう意味だ。

(秋山英宏)

※写真は「全仏オープン」でのジョコビッチ

(Photo by Adam Pretty/Getty Images)