あのスーパースターはいま(8)前編 サッカー選手に限らず、スポーツ選手が引退後に政治家になるのは珍しいことではない。選手…

あのスーパースターはいま(8)前編

 サッカー選手に限らず、スポーツ選手が引退後に政治家になるのは珍しいことではない。選手時代の知名度は既成の政党にとって魅力的だし、選手自身も、自分の影響力を別の形で公共のために役立てたいと思うからだろう。そのなかでも、重要なポストに上り詰めた者には、政治に対する高いモチベーションがあるようだ。

 元サッカー選手で、最も高い地位に着いた代表格といえば、リベリアのジョージ・ウェアだろう。

 フランスのモナコでアーセン・ベンゲルにその才を見出され、パリ・サンジェルマン(PSG)、ミラン、チェルシー、マンチェスター・ユナイテッドなどで活躍。驚異的な身体能力とスピードを武器に、数々の伝説的ゴールを生み出した。1995年には、アフリカ人選手として最初のFIFA最優秀選手とバロンドールに選ばれ、ヨーロッパにアフリカの選手の質の高さを認識させた先駆者でもあった。アフリカでは年間最優秀選手に3度選出されたのち、「20世紀最高のアフリカ人選手」にも輝いた。



1995年にはアフリカ人として初めてFIFA最優秀選手、バロンドールに選出されたジョージ・ウェア

 ウェアの祖国リベリアは、アメリカで解放された奴隷たちが、アフリカに戻って作り上げた国家だ。1989年から約14年間、内戦が断続的に続き、国は荒廃し、貧しかった。ウェア自身も首都モンロビアのスラム出身。自動車修理工の父親を早くに亡くし、貧しいなかで育った。そのため、選手時代から自国の現状を憂いており、ことあるごとに行動に移していた。

 1994年には祖国にサッカーチームを作った。その門戸は学校に行っている子供たちだけに開かれており、勉学をあきらめないよう支援した。1997年にはユニセフの親善大使に就任。自身も多額の寄付をするかたわら、1998年には『Lively Up Africa』という歌をイブラヒム・バ(元フランス代表)やタリボ・ウェスト(元ナイジェリア代表)など、8人のアフリカ出身の選手とリリース。売り上げはアフリカの子供たちのために役立てられた。

 2003年にアラブ首長国連邦のアル・ジャジーラで引退した後は、しばらくアメリカに移り住み、ビジネススクールなどに通っていたが、その後、祖国に戻り、政治の道を目指すようになる。

 そこには、以前に会った南アフリカの指導者、ネルソン・マンデラの影響もあったという。マンデラはウェアのことを"アフリカの誇り"と呼び、その影響力を祖国のために使ってほしいと彼に語っていた。「自分の国と、その人々のために何かしなければいけないと思った」(イギリス『ガーディアン』紙)と、後にウェアは語っている。

 2005年、リベリアで初の民主選挙が行なわれると、ウェアは大統領選に打って出た。政治経験の浅い彼は、当選こそしなかったが、40%近い票を得て次点だった。2011年の選挙では、今度は副大統領を狙ったが、これも当選までには至らなかった。

 だが、ウェアは道を切り開く男だ。2017年12月、リベリアが、初めて国際機関などの協力なしに独自の力で行なった大統領選挙で、60%の得票を得て、彼はついに大統領に就任した。元プロサッカー選手が一国の大統領となったのは初めてのことである。

「サッカーを始めた時、私はバロンドールを獲得することになるなど思いもしなかった。ただ情熱だけはあった。日々懸命に練習し、寝ている時、食事の時でさえトレーニングをイメージしていた。だから政治の世界でも、懸命に頑張れば、決して不可能はないと思った」

 現在もウェアは大統領の座にあり、コロナ禍に襲われる国を率いている。リベリアは過去にエボラ出血熱のパンデミックを経験しているだけに、それを教訓に、いち早くコロナ対応をした国のひとつだと言われている。

 一方、ウェアと同じくミランでプレーしたカハ・カラーゼは、故国ジョージアで政治の世界に入った。カラーゼはジョージア人として初めてセリエAでプレーした選手であり、ミランでは2002-03シーズンと2006-07シーズンにチャンピオンズリーグ(CL)で優勝。当時のミランには多くのスター選手がいたが、高い守備力と安定性でレギュラーの座を手に入れた。もともとはSBだが、CBもできるので、パオロ・マルディーニ不在時には、その代役を務めたものだ。

 カラーゼが政治の世界に入ったのは、ある悲しい出来事がきっかけだった。

 彼がミランに移籍した1年目の2001年、ジョージアで医大に通っていた弟のレヴァンが、警官のふりをした2人の男に誘拐されたのだ。犯人は5000万円近くの身代金を要求してきた。

 当時のジョージアの大統領は、カラーゼの家族に全力を尽くすと約束したのに、政府や警察は実際にはほとんど何もしてくれなかったという。身代金の受け渡しもうまくいかず、結局、弟の行方はわからなくなってしまった。

 カラーゼはこの時の絶望感を、その2年後、CLで優勝した後にイタリアの『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙にこう語っている。

「こんな喜びの中にあっても、毎朝、目が覚めてまず一番に考えるのは弟のことだ。生きているのか死んでいるのか。そして神にどうか生きて元気で家族のもとに返してくれと日々祈っている」

 しかし2006年、誘拐から5年後に、ジョージア国内で8体の遺体が発見され、そのうちのひとつが弟のものであると、9カ月後に確認された。なぜレヴァンが殺されたのかは謎だが、身代金受け渡しの時に、警察が見張っていたことに気づいた犯人がパニックとなり、射殺したのではないかという噂もあった。
(つづく)