パソコン画面の向こうに座る宮國椋丞は青地のマスクをつけていた。球団から支給されたのだろう。マスクにはベイスターズのロゴ…

 パソコン画面の向こうに座る宮國椋丞は青地のマスクをつけていた。球団から支給されたのだろう。マスクにはベイスターズのロゴマークと、「106」の白抜き数字が入っている。この数字が宮國の新しい背番号だ。

 3月15日、DeNAは宮國と育成選手契約を結んだと発表した。宮國は昨年11月に巨人から戦力外通告を受け、現役続行を目指してトレーニングを続けていた。



3月15日にDeNAと育成選手契約を結んだ宮國椋丞

 まさに「雨垂れ石を穿つ」を地で行く宮國の育成契約は、多くの野球ファンから祝福された。宮國にとっては当然、通過点に違いないが、保障がまったくない日々をどうして乗り越えられたのか本人に聞いてみたかった。

 そもそも昨年12月7日に神宮球場で開かれた12球団合同トライアウトの時点で、宮國は「投げて終わろう」と悲壮な決意で臨んでいる。

「これが最後の舞台になるかもしれない」

 そんな覚悟があったと宮國は明かす。

 トライアウトに登場した宮國を見て、「こんなフォームだったか?」と違和感が拭えなかった。シーズン中よりも明らかに腕を振る位置が下がり、サイドスローに近くなっていたからだ。

 なぜこの腕の振りになったかといえば、その位置でしか腕が振れなかったからだと宮國は言う。

「あの時はケガ明けで、怖さや多少の痛みもあったんです。探り探り投げていたんですけど、あの腕の位置だったら投げられたので。あれくらいが限界の位置でした」

 宮國ははっきりと「その場しのぎ」と表現した。宮國の言う「ケガ」とは、戦力外通告を受ける一因となった右肩痛である。10月5日に右肩の違和感を訴えて一軍登録を抹消されており、わずか2カ月しか経過していなかった。

 万全でない状態でもトライアウトを受験した理由を宮國はこう語る。

「僕のなかではまだやりたいという気持ちがありました。あとは周りの方々も僕がケガをして『投げられるのか?』と思っていたはずなので。『ここまでは回復しているよ』というのを見せたくて、トライアウトを受けました」

 打者3人と対戦して被安打1、奪三振1。ストレートの最高球速は140キロだった。本調子にはほど遠いとはいえ、宮國は「思ったより投げられた」と好感触を得ていた。

「ここから上がってくるだろうな、という感じはあったので。僕のなかでは、『可能性はまだ消えていない』という思いがありました」

 宮國はトライアウト後も単身でトレーニングを続ける。だが、ここからがイバラの道だった。

 年末年始は故郷の沖縄で兄を相手にブルペンに入った。だが、温暖な沖縄での調整を重ねても、宮國の状態はなかなか上向いてこなかった。当時の自分を「半信半疑だった」と宮國は振り返る。

「痛みもなく投げられてはいたんですけど、完全ではなかったです。今まではもう少し腕が振れていたのに、スムーズではないなと」

 そんな折、宮國に手を差し伸べる先輩がいた。巨人時代のエースだった内海哲也(西武)である。

「『もし現役をやる気があるんだったら、自主トレに来ないか』と内海さんに誘っていただきました。はい、お願いしますと。行かせてもらいました」

 内海の合同自主トレには、コンディショニングを管理する専門家も帯同する。宮國にとってはこれが大きかった。内海らとともに体のケアを受けるうちに、宮國の肩のコンディションが目に見えてよくなったのだ。

 宮國は自分への期待感を抱けるようになった。

「完全に治って、腕を振れるようになったので。これならやりたいなと」

 2月に入るとプロ野球の各球団は一斉に春季キャンプに突入する。内海から離れた宮國だが、内海の専属トレーナー・保田貴史さんが引き続き宮國をサポートしてくれた。

 巨人の投手コーチだった小谷正勝さんがグラウンドに現れ、フォームのアドバイスを送ってくれるサプライズもあった。だが、この時期がもっともつらかったと宮國は語る。

「12月、1月あたりは『まだこれからだ』と思っていました。でも、2月になるとキャンプも始まりますし、やっぱりきつかったですね。話が来ないので......」

 挫けそうな時期もあったが、それでもグラウンドには立ち続けた。

 なぜ、オファーを待てたのか。

「やれそう」と思えるほど、状態がよかったからだろうか。そう尋ねると、宮國は少し考えてからこう答えた。

「『やれそう』というか、『やりたい』。もちろん、やりたくてもやれる世界でないですけど、わずかでも可能性を信じて、自分が悔いのないところまでやろうと思っていたので。あきらめたら自分のなかで悔いが残りますし、それで話がなければあきらめはつきますから」

 

 4月17日には29歳になる。

 酷な質問と思いながらも、聞かずにはいられなかった。「今までのキャリアでもっとも納得のいくボールを投げていたのはいつ頃ですか?」と。宮國は静かに、感情の読み取れない表情でこう答えた。

「やっぱり(プロに)入ってきた当初じゃないですかね。一軍に出始めた1年目が一番よかったと思います」

 宮國は2010年ドラフト2位で巨人に入団している。2位指名とはいえ、当時の巨人編成陣は宮國を「高校生ナンバーワン投手」と高く評価していた。

 高卒1年目にはイースタン・リーグで4試合の登板ながら3勝0敗、19イニングを投げて防御率0.00。2年目には一軍に昇格し、17試合の登板で6勝2敗、防御率1.86と鮮烈なデビューを飾っている。翌年には20歳で開幕投手に抜擢され話題になった。だが、この頃から宮國に変調がきたすようになっていた。

 伸びやかだった右腕のテイクバックがコンパクトになり、抜群のキレを誇った本来のストレートが投げられなくなった。

 テイクバックが変わった理由は肩・ヒジを痛めたからでも、コントロールを気にしたからでもない。宮國は「感覚の問題です」と言葉少なに説明する。

 投手は繊細な生き物だ。20歳前後に大人の体へと変化していく過程で、今までできていた動作の感覚にズレが起きてしまう例は珍しくない。

 それ以来、宮國は葛藤を抱えながらプレーを続けてきた。

「もっといいボールを投げられたのに、という思いは常にありました。でも、そこは割り切って投げるしかなかったですね。いま持っているものしか出せないので」

 かつてのボールを取り戻せていたら、宮國椋丞という投手は20代で戦力外通告を受けるような存在ではなかったはずだ。それでも這いつくばって現役に執着を燃やした背景には、サポートしてくれた人々への感謝の思いがあった。

「ひとりでは絶対にできなかったし、あきらめていたと思います。周りの方々の支えがあって、ここまでできました。野球で出会った方々に、野球を通じて恩返しがしたい。その気持ちが僕の支えになっていました」

 NPBからのオファーがなければ、国内独立リーグでプレーして、支配下登録期限まであきらめずにプレーする。そう決めていた。

 3月上旬、待ちに待ったオファーが届いた。投手陣補強を狙うDeNAからテスト参加の打診があったのだ。横須賀市のDOCK(ファーム施設)で投球を披露した宮國は「アピールできたかはわかりませんが、いつもどおり投げられました」と振り返る。

 育成選手契約は勝ち取ったものの、もちろんゴールではなく通過点でしかない。今後の課題を聞くと、宮國は「試合感覚」を挙げた。

「バッターに投げることもまったくなかったですし、ほかの選手に比べて実戦ができていないので。そこは徐々にアジャストしていければなと」

 3月31日にはイースタン・リーグの古巣・巨人戦で実戦初登板。2回を投げ、1失点だった。最高球速は147キロを計測している。

 トライアウトや1月の自主トレ中はサイドスローに近い位置から腕を振っていたが、今は「だいぶ腕の位置が上がって、強いボールが投げられている」と手応えがある。

 最後に契約をしてくれたDeNA球団への思いを聞くと、宮國は意を決したようにこう語った。

「獲っていただいたので、ベイスターズのためにも1日でも早く支配下を勝ち取って、一軍のマウンドで早く勝利に貢献したい。その思いだけですね」

 もはやホープと言える年齢ではなくなった。それでも、地獄を見た人間は強い。宮國椋丞のプロ野球人生・第二章が始まった。