「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第16回 城之内邦雄・前編 (第1回から読む>>) 時の流れに埋もれていく「昭和プ…

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第16回 城之内邦雄・前編 (第1回から読む>>)

 時の流れに埋もれていく「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。今回は巨人のV9直前からその前半にかけて大車輪のピッチングを見せた、城之内邦雄(じょうのうち くにお)さんの言葉を振り返る。

 日活アクション映画で人気を集めた俳優・宍戸錠さんの愛称にちなんで"エースのジョー"と呼ばれた城之内さん。ご本家とも共通する苦み走ったニヒルな表情で打者をバッタバッタと打ち取る快速球のウラには、アマ時代の意外なトレーニング方法があった。



まるで野球マンガのようにカッコいい城之内邦雄の投球フォーム(写真=共同通信)

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 城之内邦雄さんに会いに行ったのは2011年4月。東日本大震災の影響で本来は3月25日だったプロ野球開幕が延期されたなか、かつて巨人のエースだった城之内さんと、巨人のルーキー澤村拓一(現・レッドソックス)との間に歴史的な接点が生まれる可能性があった。

 千葉の佐原一高(現・佐原高)から社会人の日本ビール(現・サッポロビール)を経て、1962年に巨人に入団した城之内さん。いきなり24勝を挙げて新人王に輝いたのみならず、同年の開幕投手を務めている。

 通常、開幕戦の先発マウンドにはエース級が上がり、新人に任されるケースはきわめて稀(まれ)だ。プロ野球が1リーグ制の時代には10人以上の新人開幕投手が出現したが、2リーグ制以降、城之内さんのあとは84年のヤクルト、高野光しかいない(当時。※後に2013年、楽天・則本昂大が登板)。それが、原辰徳監督の期待度高く、「澤村の開幕? 十分にチャンスはありますよ」と公言していたのだ。

 一方で城之内さんは、1月の新人合同自主トレ最終日に澤村を視察。「自分以来に開幕投手を務めるかもって聞いて、うれしくて見に来た」とコメントし、後輩の練習ぶりを見るなり「素材は素晴らしい」と絶賛、直接指導もしたという。しかも、澤村の背番号15は、城之内さんが現役時代につけていたもの。この共通項もまた、元エースの心を動かしたようだ。

 僕は城之内さんに取材を申し込んだ。そもそもなぜ、新人にして開幕投手を務め、24勝も挙げられたのか──。

 東京・大田区、東急池上線の駅で城之内さんと待ち合わせた。高くて厚みもある鼻が際立つ彫りの深い容貌は、往年のアクション映画に由来する[エースのジョー]という愛称、その語感が醸し出すイメージにぴたりと合致する。黒い柄物のセーターに黒のブルゾンを羽織り、スボンも黒で統一されたスタイルとあいまって、71歳という年齢(当時)を感じさせない。

 野太い声で「お茶飲み行こう」と案内されたレストランが取材場所になった。ご自宅から近い行きつけのお店で、窓際の席に座った城之内さんは穏やかな表情で「コーヒーでいいの?」と尋ねて注文してくれた。緊張が一気に解け、僕は早速、澤村の話を切り出した。

「今も俺としては、澤村に開幕投手をやってほしいんだな。いいじゃない。新人だからダメってことはないんだから。負けても何してもいいじゃない」

 取材を申し込んで面会の日が決まったあと、原監督は東野峻を開幕投手に指名し、澤村の可能性はなくなっていた。それでも城之内さんは澤村を推している。投手として高く評価しているからこそだろう。

「体型、ボールの力、勢いは素晴らしいね。で、名前もいいんだわな。大投手と同じだから。俺は大投手の沢村さんを見たことないから比べられないけども、まず名前が素晴らしいわ」

 黎明期の巨人のエースにして、球史に残る伝説の投手、沢村栄治と同じ姓であることが強調される。気持ちがなごむようなアクセントが入り混じる口調は、声のトーンが低いわりに早くて歯切れよく、温かみもある。

「ただね、澤村の体はウエイトトレーニングで作った体なんです。ピッチャーの体はそれじゃあダメなんだけど、彼は大学時代、それでよくなっていった人だから、これからどういう考え方でやっていくか。で、俺が自主トレで彼に会って伝えたのは、『下を使ってほうれるようになったら、まだまだよくなる』ってこと」

「下」とは下半身を意味する。現状の澤村は上半身の力で投げているため、疲労がたまったときに力んで投げた場合、肩・肘を故障しやすいという。

「下を使えるようにするには、どんどんどんどん走ること。だから『下を使えば楽で、いいボールほうれるよ』って言ったら、『わかりました』とは言ってたけど、今の体でいい結果が出てるから、これ、難しい問題なんです」

 城之内さんは身を乗り出して言った。コーヒーが運ばれてきて、「あったかいうちにどうぞ」と勧めてくれながら、さらに言葉が続いた。

「澤村の場合、今の体で投げるボールでも、プロで力勝負できる。ボールに力のあるピッチャーがあんまりいないなかでは、すごいことなんだわ。だったら、なまじっか細かいコントロールなんかつけるよりも、どんどん力で押してったほうがいいんじゃないかなあ。どうせ、ど真ん中を狙ったって、ど真ん中に行かないんだもん。どっちかに行くもんなんですよ。ど真ん中を狙っていつもど真ん中に行ったら、大変なピッチャーになっちゃう」

 急に目が大きく見開かれ、面と向かって初めて笑みがこぼれた。「ボールに力のあるピッチャーがあんまりいない」ということは、現状の巨人投手陣のなかでも澤村のボールがいちばん力がある、と言えるのだろうか。

「そう言っていいと思うな。だから投げてほしいなあ、開幕。そしたら、ほかのヤツは奮起するよ。内海(哲也)だとか東野だとか。二人とも、去年は防御率3点いくつとか4点いくつとかでしょ? 俺に言わせりゃ、そんな数字じゃ、我々の時代だったら相手にされないよ〜、ほんとに。エースだって言われてんなら、それは悪くたって2点台後半ですよ」

「我々の時代」という言葉が出てきたところで、城之内さん自身の「開幕」までの道のりが知りたくなる。新人開幕投手の背景には、投手陣の台所事情があったからなのか。それとも、当時の川上哲治監督に何か考えがあったからなのか。

「あの年は川上さんが監督になって2年目だったもんで、別所さんがね、『キャンプでいちばんよかったのはオープン戦の初っぱな。オープン戦でいちばんいいのは開幕』って決めてたんですよ。要は、監督よりコーチのほうに権限があって、30人近くいたピッチャーみんな集めて、キチッと伝えた」

 当時の別所毅彦投手コーチが、開幕投手を決めるための競争をさせたのだった。言い換えれば、そのときの巨人投手陣に絶対的なエースはいなかったのだ。

「で、自分は30人近いなかでどのへんにいるかってことを知るために、ライバルを決めてね、キャンプに向かっていった。競争してね」

 城之内さんがライバルと設定したのは、前年に17勝を挙げて勝ち頭だった中村稔、同じく前年8月に関西大を中退して入団した村瀬広基(ひろもと)だった。村瀬は9月に5連勝してチームの優勝に大きく貢献していた。

「中村さんは俺のひとつ上で、村瀬はひとつ下。なんせ同じ年代の人がライバルなんですよ。5つ6つ、7つも離れると、力的に差もあるし、競争心はなくなっちゃう」

 とはいえ、城之内さんは結果的に、年代が上の人たちも追い抜いてしまった。オープン戦では7試合に投げて4勝0敗、33回を投げて自責点はわずか1だった。とにかく、いちばん成績がよかったから開幕投手を勝ち取ったのだ。

「そう決めてくれたからね、別所さんが。俺はオープン戦の頃にはもう、体力とボールのキレは誰にも負けないって自信がついてた。だけど、あとで聞いたら、『最初は面白くなかった』って、ベテランの人たちは。『あんなのにやられて』って。でも、結果が出ちゃったから文句言われなくて済んだんだよ」

 そして、阪神との開幕戦、城之内さんは5回を投げて6安打2失点。打線の援護がなく、1対2で負け投手となったが、徐々に調子を上げてオールスターまでに10勝。後半戦には10連勝も記録し、14勝を挙げての年間24勝だった。

 ライバルの中村は9勝、村瀬は2勝に終わり、ほかにチームで2ケタ勝ったのは13勝の藤田元司のみ。一方で城之内さんは全134試合のうち56試合に登板して防御率2.21、投球回数は280イニングを超える大車輪の働きをしていた。

「今と違って、我々の時代は中3日でほうってリリーフしたりしたからね。で、2年目は17勝したけど、19勝の伊藤芳明さんに負けた。防御率だって、俺は2点台だったのに、伊藤さんは1点台だもんね。ただ、俺は次の年に18勝して、2年続けて21勝って、5年で101勝った。俺のあと、そういうピッチャーはいないんだからね」

 いかにも、城之内さんは入団5年目に通算100勝を達成しており、その後、現在に至るまで同じ成績を残した投手はいない。それ以前にしても、2リーグ制以降では杉下茂(中日)、金田正一(国鉄)、稲尾和久(西鉄)、杉浦忠(南海)、梶本隆夫(阪急)、秋山登(大洋)という6人がいるだけだ。

「大投手ばっかりだよな。でも俺、それからが悪かったからなあ。6年目まではよくて、7年目にノーヒットノーランやったんだけど、その年の後半から腰がおかしくなって」

 おもむろにノーヒットノーランの話が出た。その快挙は68年5月16日の大洋戦で成し遂げられたのだが、スコアは16対0という大差。相手打線も戦意を喪失していたと思われるが、それでもすごいことに変わりはない。

「巨人の先輩はもっとすごいよ。大友工(たくみ)さんの17対0でノーヒットノーランってのがある。だから俺、2番目なんだよ。でね、6回ぐらいかな。ピッチングコーチの藤田さんから『おまえ替われ』って言われたんだよ」

 驚きのあまり、つい笑ってしまう。首脳陣に交替を命じられたなかでの大記録達成、果たしてほかにあっただろうか。

「藤田さん、ノーヒット、わかってなかったんじゃないかな。もちろんこっちは替わる気ないよ、全然。で、『ヒット打たれるまでほうらせてくださいよ』って言ったら、『そうか』って言われて、そのまま行っちゃった」

 1ヵ月前、この試合の一部を映像で見る機会があった。ゲームセットの瞬間、城之内さんはマウンド上で大喜びするわけでもなく、淡々としていた。笑顔も控えめで、両手を上げるような派手なポーズもまったくないのは意外過ぎた。大差がついていたからだろうか。しかし、大差がついた試合はなおさら難しい面があるのではないか。

「難しい、すごく難しいよ。1ゼロとか2ゼロ、3ゼロとは違うからね。相手ピッチャーが頑張ってるからこっちも、というような気持ちの入れようもないし......。でも、なんでそれでもできたかって言ったら、一球入魂っていうのがあるでしょ? 知ってるよな? 一球一球、真剣にほうることの大切さ。それをノンプロのときに教えてもらってたから、点差は関係なかった」

 ノンプロとは、社会人の日本ビール時代。高校卒業後、4年間、在籍していた。

「結局、その4年間が自分にはよかったんです。もう、すごい練習したから。特に走ることね。だいたい俺、小学校4年生から陸上部入って、短距離走るの得意だった。4年のときは縄跳び専門で、5年、6年とリレーのメンバー。で、縄跳びもね、またあとで生きたんだよ」

 話は急激に小学生時代へとさかのぼる。三角ベースで野球をやっているときから巨人ファンで、ベーゴマとメンコで毎日遊んだおかげで手首の使い方がよくなったこと、それが後々カーブを投げるときに有効だったことが語られた。子供の頃の遊びが野球に生きた、という話は過去の取材でも耳にしたことがあるが、遊びが変化球習得に直結したという話は初めて聞く。

「そこでまた縄跳びの話になるんだけど、縄跳びでも二重跳びの腕の回し方って、曲がり落ちるシュートを投げるときの腕の振りとぴったり一緒だったの。背筋をピシッと伸ばして、ゆっくりぃ速く、ゆっくりぃ速く。腹筋も使うし、肘をやわらかく使える。投げるのとぴったり一緒。普通、シュートは肘を壊すんだけど、縄跳びをやったおかげで壊さなかった」

 自然と両手で縄跳びを持つ格好になり、二重跳びの腕の回し方と腕の振りを想像してみる。が、なかなか結びつかない。さらに縄跳びの話が続く。

「縄跳びは中学ではやらなかったけど、高校でもやったのがよかったんだろうね。中学でやらなかったのは、俺、補欠でやめちゃったんだよ、3年の春で。ファーストの補欠。試合出られない、つまんないからやめちゃった。だから、そのときは自分の考えがなかった、全然。外野に行きゃあ勝てたかもわかんないけど、学校だけでやってる練習だったからダメだった」



「エースのジョー」らしい雰囲気を漂わせる取材当時の城之内さん

 まったく意外な話──。往年の名選手の取材で、アマ時代の初期に補欠だったという球歴は聞いたことがない。途中で野球部をやめた話もまず聞いたことはなかった。

「高校も最初はライトの補欠。ピッチャーは2年の秋から。それが3年のときに県の決勝まで行けたのは、目標を立てたからだと思う。当時は夏の甲子園も一県一校じゃなく、千葉と埼玉で4つずつ出て勝ったのが行ったから、俺たちはそのなかに入ろう、というのがチームの目標。

 で、個人の目標は、自分はホームラン打ったことないから1本打ちたい、千葉で3本の指に入るぐらいのピッチャーになりたいって。それでどんどん練習やったんですよ」

 個人での練習は毎朝10キロ走り、1日にハンドグリップを4000回。夜は縄跳びとバットスイングをやる。学校の練習では1日に200〜300球を投げ、練習試合は毎週土曜に1試合、日曜に2試合。12月から2月まではボールを持たずにトレーニングを積んだ。

「よく体が持ったと思う。先輩は厳しかったけど、集中力持ってね、ヘタはヘタでも一生懸命やりゃあ、怒られなかったの。だからすごくいい指導を受けたんですよ、先輩にも監督にも。そしたら本当に準決勝でホームラン打てたし、千葉で3人のなかに入ったと思うんだな」

(後編につづく)