「オープン球話」連載第56回 第55回を読む>>【安田猛の王貞治対策は「一本足のバランスを崩す」こと】――前回に引き続き…

「オープン球話」連載第56回 第55回を読む>>

【安田猛の王貞治対策は「一本足のバランスを崩す」こと】

――前回に引き続き、ヤクルト時代にバッテリーを組むことが多かった、2月20日に亡くなられた安田猛さんとの思い出を伺っていきます。前回のラストでは「王貞治さんとの対決が懐かしい」とおっしゃっていました。確かに、安田さんと王さんの対決は名勝負ばかりでしたね。

八重樫 安田さんも王さんとの対戦に燃えていたし、王さんも安田さんとの対戦には意気込みを感じていたように思います。実際に安田さんは"王さん対策"として、いろいろなことを試していました。基本にあるのは「一本足のバランスを崩す」ということでしたね。



巨人・王貞治と数々の名勝負を繰り広げたヤクルトの安田

――王さんが打席で一本足になった状態でバランスを崩させるということですね。

八重樫 王さんは、一本足で立っても決してバランスを崩さない。それはもう本当にすごくて、びくともしないんです。でも、安田さんはとにかく「テンポを変える」ということを意識していました。キャッチャーから返球があったあとにすぐに投げる。逆に、なかなか投げない。投球を開始して右足を上げたのに、じっとしたまま投げない。あるいはクイックで一気に投げる。人を馬鹿にしたような緩いカーブを投げたと思えば、インコースを突くシュートを投げる。本当にいろいろな工夫をしていましたね。

――以前、安田さんにインタビューした際に、「王さん対策」を伺ったことがあります。緩いカーブを投げた時に、解説の荒川博さんが「神様に向かって、あんなボールを投げるなんて失礼だ。この若造が!」と激怒したと言っていました。

八重樫 それだけ安田さんも必死だったんですよ。安田さんはコントロールがすごくよくて、フォアボールが少なくて有名でしたよね。本人もフォアボールを出すことをすごく嫌っていました。彼の意識の中では「フォアボールならヒットでいい」と考えていましたから。王さんに対しても、「ホームランはダメでもヒットならいい。フォアボールはイヤだ」ということを徹底していました。

――ちなみに安田さんは「王さんを抑えるのはインハイがキモだ」とおっしゃっていました。そして、王さんの引退後に「泳がされたピッチャーは何人もいる。でも、詰まらされたピッチャーは安田など数えるほどしかいない」と言っていたことが誇りだったそうです。

八重樫 安田さんは上手にタイミングをずらしたから、王さんを詰まらせることができたんです。緩いシンカーを投げていたことも、ストレートを生かしたんだと思いますね。ただ、王さんもやっぱりすごかったですよ。しっかり王さんを抑えられたこともあったけど、その次の年はまったくタイミングを狂わせることができなくなりましたからね。

【王さんに打たれた「757号」の思い出】

――安田さんの死後のニュースで、王さんが「安田さんから打った757号ホームランが印象深い」と言っていました。このホームランのご記憶はありますか?

八重樫 覚えていますよ。1977(昭和52)年の夏、王さんが世界記録の756号を打つかどうか騒がれていた時、ヤクルトと対戦したんです。この連載でも、鈴木康二朗さんが756号を打たれた場面のことを話したけど、その前に安田さんが打たれる可能性もあったんです。でも、「オレは絶対に記録となる一発は打たれない」とずっと言っていて、あれだけフォアボールが嫌いだった安田さんが「フォアボールでもいい」と話していたよ(笑)。

――結局、756号は打たれなかった。けれども、鈴木さんが756号を打たれた翌日の試合で安田さんが757号を打たれてしまったわけですね。

八重樫 あの試合は王さんのサヨナラホームランでした。王さんがあの試合をよく覚えていると言ってくれたのは嬉しいです。756号も僕の目の前で打たれたけど、757号も目の前で打たれましたからね。

――安田さんも現役時代の思い出として「王さんとの対決が最高だった」と語っていました。上から投げたり、横から投げたり、いろいろ工夫をしたと。印象的だったのは「王さんの一本足は大きな特徴ではあるけれど、僕は欠点だと考えたんです」という言葉です。

八重樫 まさにそうですね。あの独特の一本足打法でたくさんのホームランを打ったけど、安田さんは、「それは逆に弱点でもある」と考えていました。あれだけ遅いボールで、世界の王さんを詰まらせたんだから、やっぱりすごいピッチャーだったんですよ。

【左ひざの故障で早すぎる現役引退】

――ルーキーイヤーの1972年に新人王と最優秀防御率の二冠を獲得。翌1973年も最優秀防御率のタイトルを獲得。入団直後の安田さんはすごかったですね。

八重樫 他にいないタイプのピッチャーだったし、絶妙のコントロールを誇っていたから、決して威圧感はないのに圧倒的な成績を残していましたね。プロ3年目に右ひざを故障してから、改めて試行錯誤が始まった。1975年は16勝、1976年は14勝、1977年は17勝、1978年は15勝とコンスタントに勝ち星を重ねたのは立派でしたよ。

――でも、1979年は1勝、1980年は4勝、そして1981年は0勝。この年限りで、34歳での引退となりました。晩年は故障に苦しんだんですよね。

八重樫 そうですね。プロ3年目が右ひざで、現役晩年は軸足となる左ひざを故障したんだよね。正直に言って、もうキレのあるボールは投げられなくなっていました。とにかく、ごまかしのピッチングだった。マウンドに上がる、降りるだけでも苦しそうでしたから。相手にバントをされると、処理ができなくなっていたね......。

――左足のひざを故障したということは、軸足ですから、当然ピッチングにも大きな影響を与えるでしょうね。

八重樫 安田さんの持ち味は、投球を始めてからのタメにあったんです。左足一本で立った時に、じっくりとタメができるから、バッターのタイミングを狂わせることができた。でも、左ひざを故障してからは下半身の粘りが利かないから、上半身でごまかすしかなかったんです。でも、それもすぐに対策を立てられる。そうなると、もう安田さん本来のピッチングはできなくなるよね。

――この頃の安田さんの姿を子どもながらに覚えていますが、マウンド上での威圧感みたいなものはほとんど感じられませんでした。

八重樫 先発してノックアウトされた時、まだ体が元気な頃は「マウンドから降りたくない」という雰囲気が漂っていたんです。でも現役晩年になると、自分の思うようなボールが投げられないから、降板を告げられると自ら逃げるようにベンチに戻っていくようになりました。あの姿を見るのはつらかったな。

――1981年限りでユニフォームを脱いだ安田さんは、一軍投手コーチやスカウト、スコアラー、編成部長を歴任しました。ずっとヤクルトに在籍していたので、八重樫さんとも長いつき合いとなりました。

八重樫 いろいろ頭を使って投げていた人だから、いい指導者になると思ったんだけど、若い選手たちの中にはとまどっていた選手もいましたね。尾花(高夫)なんかは貪欲に知識を取り入れるタイプだから、安田さんの話に耳を傾けていろいろ実践してみたようだけど、大川(章)とか、矢野(和哉)なんかは安田さんの指導は合わなかったみたいでした。あの頃は、安田さんに頼まれて若い投手たちの悩みを聞いたり、安田さんの考えを伝えたり、僕なりにいろいろしましたね。

――まだまだ安田さんの思い出話は尽きません。ということで、次回もこの続きからお願いします。

八重樫 僕にとっても大切な人でしたから、また次回も思い出話をしたいと思います。

(第57回につづく)