日本の学生スポーツではなぜ「明日の練習は休み」と聞くと選手たちが喜ぶのだろうか? また海外の指導者がそろって首をかしげるのが「なぜそこまでして選手を追い込むのか?」という点だ。毎日のように部活に明け暮れ、週末は朝から晩まで練習か試合が当たり…

日本の学生スポーツではなぜ「明日の練習は休み」と聞くと選手たちが喜ぶのだろうか? また海外の指導者がそろって首をかしげるのが「なぜそこまでして選手を追い込むのか?」という点だ。毎日のように部活に明け暮れ、週末は朝から晩まで練習か試合が当たり前という環境は本当に正しいのだろうか。本稿ではサッカーをテーマに「18歳で競技を引退する理由」について考察するが、どのスポーツにも、あるいは芸術や音楽といったすべての分野に当てはまる問題ではないだろうか。

(文=中野吉之伴、写真=Getty Images)

なぜ高校卒業を機にサッカーをやめないといけないのか?

今年もSNS上で数多くの学生サッカープレーヤーたちによる「引退宣言」を目にした。一言で引退といってもいろんな意味合いで使われていると思うのだが、「もうサッカーはお腹いっぱいなのでとにかく距離をとりたい」「サッカーを続けたいけどプレーできる環境が身近にない」という引退理由は日本独特のものではないかと思われる。

もちろん欧州であってもそういう子どもたちがいないわけではない。合う合わない、人間関係が問題、なんていうことは世界中どこでもある。でも日本のように小学校、中学校、特に高校卒業を機に、それまで一生懸命取り組んでいたスポーツを引退するというケースが起こることは欧州ではそうそうない。

それは日本における生涯スポーツの考え方、そしてスポーツ環境の問題とも大きく関わっているからではないだろうか。なぜ日本だと「18歳で引退」という考えが、一般化されているのだろう?

「引退せずにサッカーを続けなよ」と外野がいうことは簡単だ。でも実際のところどこでどのようにサッカーができるのだろう? 日本ではそもそものところで生涯スポーツを続けられる環境が十分にはないし、そのための政策や取り組みが進んでいるとも思わない。

一例として挙げるとドイツサッカー連盟には現在約712万人の会員が登録されているが、そのうち実に500万人以上が大人なのだ。もちろん登録されている選手がみんな通年プレーしているわけではないし、登録費を払う形でクラブを助けているという人も一定数いる。それでも少なくとも彼らには所属クラブがあり、やろうと思ったらいつでもサッカーをプレーできる環境がある。2020年度の統計を調べてみると60歳以上の会員が56万6380人もいるのだ。

ドイツで当たり前のように目にする素敵な光景

ドイツで過ごすある日の夕暮れ時に、近くのサッカーグラウンドで行われていた風景に釘付けになったことがある。そこでは、まさに60歳以上の人たちが楽しそうにサッカーをしていた。

楽しそうといってもだらだらプレーしているわけではない。みんなそのゲームに夢中だ。一生懸命で、チームとしてプレーをしていて、激しい指示の言い合いはあるけど、文句の言い合いではない。ゴールが決まったら全員で喜び、決められたら本気で悔しがる。90歳のおじいちゃんはゴール前でパスを待つことしかできないけど、それでもボールを受けてシュートを狙い、ゴールを決めたりする。どこで待てばボールがこぼれてくるかが体に沁みついている。サッカーが体に、頭になじんでいるのだなと感じさせられた。

彼らは毎週同じ時間にこのグラウンドでサッカーをやり続けているという。小さいころにサッカーを始めたときから、変わることなく回り続けるサイクル。いくつになっても子どものときのように夢中でサッカーをしている。こうした風景がドイツ全土に2万4881あるサッカークラブで日常のように見られるのだ。生涯にわたって楽しむことができる。それこそがスポーツの素晴らしさではないだろうか。もちろん同じような光景は日本でも目にすることはできる。その光景をさらに浸透させ、当たり前にしていくことが大事ではないだろうか。

「人生にとって最も大切ではないカテゴリーにおける最も大切なもの」

スポーツはとかく強化のほうにばかり目が向けられがちである。ただスポーツとは本来僕らの生活における大事なゆとりのためにあるものだ。スポーツの語源を探るとラテン語の「デポラターレ(deportare)」にたどりつく。これは「苦しい労働時間の連続に押しつぶされそうな日常生活の中で、そこから離れた、遊ぶことができる時間や空間」を意味するという。日常生活の中には十分すぎるぐらい大変なことがあるのだから、自分たちが健全に幸せに暮らしていくためには、そこから離れて、好きなことに没頭できる時間と空間は必須なのだ。

1960年代に西ドイツでは“ゴールデンプラン”とよばれる15カ年計画が発表された。必要な経費は連邦政府、州政府、地方自治体が2:5:3の割合で負担し、国民の健康増進のためスポーツのハード面整備に乗り出す壮大な国家プロジェクトだ。そのおかげでドイツ全土のいたるところに公園、ボルツプラッツ(多目的広場)、体育館、グラウンド、プールなどのスポーツ施設が設置・整備されるようになった。

ドイツにおいてサッカーは「人生にとって最も大切ではないカテゴリーにおける最も大切なもの」と表現される。社会で生きる誰もが生活するための糧を手にしなければならない。そして家族と過ごす時間もかけがえのないものだ。仕事や家族との時間は何より優先される。でもそのすぐ後に、スポーツや芸術、音楽がくる。そしてそのための場と機会と環境を持つことは市民の権利であり、なくてはならないものなのだ。

スポーツ施設を学校と結びつけた日本の決断は間違い?

もちろん日本におけるスポーツ環境はドイツのそれとは違う。ドイツがゴールデンプランを推進していたころ、日本では多くのスポーツ施設を学校と結びつけて設置するという決断をしている。それならばそれでいい。ただそうなのだとしたら、一般生活におけるスポーツができる機会として一般市民が学校にある施設をもっと使えるようになる仕組みを作り上げる必要があるのではないだろうか。学校という存在が社会や地域と隔離されすぎてはいけない。

例えば中学校や高校であれば部活が学校生活の一部であるが、どんなに遅くても19時前後には終わるだろう。それ以降は各自治体管轄で地域に開放されることが望ましい。「学校として」という枠で考える以上そこは公立でも私立でも一律同じ条件にする必要もあるだろう。

日本の「18歳で引退」問題で考えると、卒業生のサッカーをする機会創出も大切であり、その場を提供することも学校のスポーツ施設には求められる。例えば、各学校でOB・OG向けのサッカーチームを作り、週に1、2回グラウンドや体育館を使えるように調整し、ちょうどいいレベルの社会人リーグ戦に参戦できたら、道がつながっていくのではないだろうか。引いては地域社会の活性化にも貢献できるはずだ。

またグラウンドをOB・OGにも解放することで、現役学生の練習時間を抑えることにもつながる。彼らが練習漬けになることなく、その時間を勉強や自分の趣味に使うこともできる。友達と遊ぶことだってもっと普通にできる。

ドイツの一般的なアマチュアサッカークラブの場合、高校年代でも、週に2回90分ずつのトレーニングと、週末に90分のゲームを1試合というスケジュールでプレーしている。一部のトップレベルに属する学校やクラブは別としても、それ以外の活動はもっと生涯スポーツへの考え方へ移行していくほうが互いにプラスになるのではないだろうか。 

グラスルーツにおける普及というのは、幼稚園や小学生のチームが増えることだけを意味するのではなく、彼らが大人になってもプレーできる環境が整わない限りは本当の意味では広がらないのだ。

やめたらしょうがない、じゃない。

元ドイツ代表DFルーカス・シンキビッツが本質をついた鋭い指摘をしてくれた。
「16歳ごろなんて恋人ができたり、人生において大切で素晴らしい出会いがたくさん出てくるころじゃないか。サッカーだけが人生じゃないんだ。U-16やU-17の子どもたちがその年代で楽しんでおくべきことがたくさんある。みんなで集まって、遊んで、笑い合う時間がどれだけ素敵なことか。それが人生を豊かにするんだ」

「練習量が少なかったらいい選手が生まれないんじゃないか?」。そうした指摘も出てくるかもしれない。でもいい選手ってなんだろう?

いい選手における一番大事な条件というのは、サッカーを好きな思いが変わらないということであり、ケガをしないということではないだろうか。つまり、彼らをサポートする側にとって大切なことは、可能な限り多くの選手が生涯にわたって楽しくサッカーができる環境を整備することではないだろうか。厳しい練習も、上を目指すための取り組みも、そこを無視してはダメなのだ。それを損なう可能性がある環境や条件というのは、そもそもいい選手が育まれるものとしては失格ではないか。燃え尽きさせてしまったら意味がない。

ドイツ人の友人である育成指導者が筆者に素朴な疑問を口にしてくれたことがある。
「日本の育成年代のサッカーはなぜそこまで選手たちを追い込むんだ? それだと本当に多くの選手がやめることになってしまうじゃないか? うまい選手は続けるけど、そうでない選手はやめなきゃいけないのか?」

やめたらしょうがない、じゃないんだ。サッカーを好きで始めた子どもがサッカーを嫌いになってやめることほど悲しいことはない。選手が「サッカーはもういいや」と思ってしまっても仕方がない環境であることを黙認し続けるのは悲劇でしかない。

本当に子どもたちはみんながみんな「高校でサッカーを引退する覚悟をもって」サッカーをしているのだろうか。スポーツってそんな窮屈なものだろうか? プロになって続けるか、やめるかの2択しかないんだろうか。多くの子どもたちは週2回の練習と週末の試合を生涯にわたって楽しんで続けることができたらいいなと思ってはいないのだろうか?

『もっとうまくなるために』
『試合に勝つために』
『大会で優勝するために』
『プロになるために』

そうした思いをもって一生懸命取り組んでいる姿勢は素敵だと思う。そしてそこからさらに未来へと導かれていく道もあるのだろう。夢への挑戦をすべきではないといっているわけじゃない。そこに向かって取り組んでいくことの素晴らしさ、ポジティブな面があることもわかっている。

でも押しつぶされて、嫌気がさして、苦しくなって、逆にサッカーから遠ざかっていった人もたくさんいるのだ。そうしたやり方しかないのだろうか? それ以外に選手が成長する道は本当にないのだろうか? サッカーと生きる道は人それぞれにたくさんあるはずなのだ。

何のために育成をするのか、何のために指導者がいるのか

最後に筆者が感銘を受けたドイツ・ミッテルライン州サッカー協会のベレーナ・ハーゲドルンさんの言葉を紹介したい。

「育成段階では子どもたちの成長に向き合うということが何よりも大事です。育成においては間違いなく選手をどのように育成するのか、彼らがどのように成長するのかという点が最も重要です。大人になってからプレーを続けていくために必要なことですよね。

 そのためには試合に出られないと成長しません。だからみんなが試合に出られるような試合環境を整理しましょう。彼ら、彼女らが常に成長できるチャンスを得られているかどうか。そのためにどんなアプローチがとられているか。

 ドイツでもまだまだ多くの監督が勝ちにこだわってしまうという現実もあります。自己満足に浸る指導者はどうしたっている。でも、その代償としてベンチにはプレーすることが許されない選手がたくさんいるわけです。彼ら、彼女らはどうなりますか? 試合に出なければ成長するなんてことはない。サッカーへの気持ちもどんどん薄れていってしまう。

 それは悲しい現実として実際にあることだけれども、私たち協会のスタッフはそういったことへのアプローチを大事にして、何のために育成をするのか、何のためにサッカーをしているのか、何のために指導者がいるのかというところを掘り下げて、強調し続けていきたいです。

 だからこそ、いま指導者育成において、育成年代ではどんな指導者が求められていて、どのように子どもたちと向き合うべきかを辛抱強く伝えていくことが非常に重要なのです。そうすることで、次世代の指導者の方々が、年代に応じた最適な取り組みということをどんどん実現していってくれると信じています」

何のために育成があるのか。スポーツとは何なのか。今一度、改めて考えてみてもらえたらうれしい限りだ。

<了>