『特集:東日本大震災から10年。アスリートたちの3.11』第1回:柏原竜二 東日本大震災発生から、まもなく10年を迎える。被災地のひとつである福島県いわき市出身の柏原竜二さんは、東洋大学の1年生だった2009年の箱根駅伝から4年連続で山登り…

『特集:東日本大震災から10年。アスリートたちの3.11』
第1回:柏原竜二

 東日本大震災発生から、まもなく10年を迎える。被災地のひとつである福島県いわき市出身の柏原竜二さんは、東洋大学の1年生だった2009年の箱根駅伝から4年連続で山登りの5区を走り、毎回の区間賞、うち3度は区間新記録を樹立。「山の神」とも呼ばれる圧倒的な強さで、母校を4年間で3度の総合優勝に導いた。



走ること結果を出すことで人々を勇気づけた、2012年箱根駅伝での柏原竜二さんの快走

 走ること、結果を出すことで人々を勇気づけた、2012年箱根駅伝での柏原竜二さんの快走

 特に主将として迎えた最後の2012年大会は、前年に逃した総合優勝奪還を目指すとともに、震災発生から10カ月というタイミングでもあり、大黒柱である柏原さんの走りが一層注目された。結果は、4区の走者から首位でタスキを受けると、グイグイと加速して独走でフィニッシュ。4年連続の往路優勝、翌日の総合優勝返り咲きにも大きく貢献した。柏原さんは、往路優勝インタビューで故郷に向けてこんなメッセージを発している。

「僕が苦しいのは1時間ちょっと。だけど、福島県の方々はもっと苦しい思いをしていると思います。それに比べたら僕は全然きつくなかったです」

 故郷、福島への思いが、まぎれもなく快走の原動力だった。

 2011年3月11日は千葉県での強化合宿最終日で、地震発生の瞬間は埼玉県の寮に戻る車中だった。首都高速道路上で、「車がボンボンと跳ねるような激しい揺れ」を感じた。その後、東北地方を震源とする大地震だとわかり、さらに大津波の発生も知った。福島県内に住む両親らの無事は、その晩にやっとつながった兄からのメールで確認できたが、電話回線が復旧して声が聴けたのは地震発生から10日ほど後のことだった。

 一時休止されていた陸上部の練習は3月下旬に再開されたが、東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響や実家のある山間部で発生した土砂崩れなど不安は尽きなかった。

「走ることはなるべく続けていましたが、『こんな大変な時に走っていていいのか』『練習以外に、やるべきことがあるのでは』と、なかなか集中できませんでした」

 モチベーションを取り戻せたのは恩師2人の言葉だった。ひとりは、いわき総合高校陸上部時代の佐藤修一監督(現・田村高校陸上部監督)で、やっとつながった電話で「帰省して手伝いたい」と話すと、「柏原にできるのは走ること。自分の仕事をしなさい。それが、福島県にとって一番だから」と励まされた。

 もうひとりは、自身も福島出身で東洋大駅伝部の酒井俊幸監督だ。

「勝てない人間が、『頑張ろう』といくら言っても説得力がない。我々のやるべきことは、勝ってコメントを出すことだ」

 練習再開にあたって、チームをこう鼓舞した。

「佐藤先生の言葉は練習に集中するきっかけになり、酒井監督は目指す方向を示してくれました。日本中の多くの人が被災地のために何かしたいと考えていた中、『僕たちは箱根で頑張っている姿を見せて勇気を発信しよう』とチームで話し合いました。しっかりとメッセージを伝えられるように、4年間で一番、勝利に執着した年になったと思います」

 震災後の福島には、8月に入って初めて帰省した。倒れたままの塀、そこかしこに掛けられたブルーシート、真新しいのに地盤沈下している道路......。

「特に津波の被害に遭った地域は本当に何も残っていなくて、あっけにとられるような感覚でした。辛いなんてものじゃなかったです」

 想像を絶する風景が広がっていた。 

 それでも、避難所ではどこも、「よく来てくれたね」と"地元のヒーロー"である柏原さんを笑顔で歓迎してくれた。

「気軽に『頑張って』なんて言える状況じゃないくらい、まだまだ苦しい時だったと思います。皆さんの強さをただただ、すごいと感じました」

 11月にも福島を再訪し、伝統のレース、「第23回市町村対抗県縦断駅伝競走大会(ふくしま駅伝)」に出場した。中学2年での初出場以来、柏原さんには5度目の出場で、いわき市チームの4区(7.3km)を任された。49チーム中首位でタスキを受けると、「走ってくれて、ありがとう」という大声援にも後押しされ、後続との差を1分27秒に広げる快走。チームの2年ぶり10度目の総合優勝に大きく貢献した。

「あの光景は今でも覚えています。ふくしま駅伝は県民にとって大切な大会なので、あの年は僕から『走らせてほしい』と直訴しました。スポーツを応援している時間は辛いことを一瞬でも忘れられる時間だと思います。僕が走ることで、そんな時間になればうれしいなと思って走りました」

 故郷を応援する気持ちが高まる中で迎えた2012年の箱根駅伝。「レース中はチームの勝利だけを考えていた」という柏原さんがタスキを受けて走り出すとまもなく、運営管理車内の酒井監督から声がかかった。

「いいか、柏原。1区から4区の選手のおかげで、1位でタスキがつながった。しっかり終わらせるぞ」

 自然とギアが切り替わった。結果は、2年前に自身が作った区間記録を29秒更新する区間新(1時間16分39秒)での往路優勝。達成感に浸っていると、酒井監督から一言。

「コメント、考えておくように」

 ふいに我に返って考え、勝者として壇上で発したのが冒頭のメッセージだった。

「被災された方たちに『頑張ってほしい』という気持ちを、どうしたら誤解なく伝えられるかと悩んだ末の言葉でした。『ちゃんと伝えられたかな』と最初は不安でしたが、後日、福島や東北から感謝の手紙を何通もいただいたんです。僕らの想いは届いたんだ、優勝できて本当によかったと、ほっとしたことを覚えています」

 そして、2021年。柏原さんは今、「復興という言葉を、どこまで使い続けるのか、定義が難しいと感じています」と話す。

 被災地は広範囲に渡っており、復興の進行具合は各地で異なるのが現状だ。福島県に限っても、新築の建物で再スタートした地域もあれば、福島第一原発周辺ではまだ避難指示が解除されていない地域が残る。今も福島県内外での避難生活を送る人もいれば、新天地で根づいた人もいる。

「元に戻っていない地域は戻さなければいけない。でも、戻すだけでなく、新たなことにも取り組んでいくフェーズに来ていると感じています。10年の節目にあたって、復興に代わる新しい言葉を見つけることが必要かもしれません」

 柏原さんは新しい住民や観光客を増やすなど一歩踏み出す取り組みとして、「老若男女が集まれるスポーツは大きなフックになる」といい、マラソン大会の前後にグルメツアーや観光などを組み合わせたスポーツツーリズムの可能性に触れた。

「いわきでマラソン大会を走った後にバスで郡山に移動して、翌朝7時にオープンする喜多方ラーメン店で人気の『朝ラー』を楽しんだり。めちゃくちゃ美味しいんですよ。ゲストと一緒に回ってもいい。それは、『いい街だね』と感じてもらうきっかけになるかもしれません。こうしたことが、地域活性化につながればうれしいですね」

 故郷への思いが強いからこそ冷静な眼差しで、今と、未来を見つめている。

プロフィール
柏原竜二(かしわばら・りゅうじ)
1989年7月13日生まれ。福島県いわき市出身。中学・高校から中長距離ランナーとして活躍後、東洋大学1年時から箱根駅伝に出場し、5区で区間記録更新の活躍で初の総合優勝へ導く立役者に。その後、4年連続で5区を走り、区間新を3度更新する活躍で、「山の神」と称される。2008年世界ジュニア10000m7位、2009年ユニバーシアード大会8位入賞するなどトラック種目でも活躍。2012年、大学卒業後、富士通に入社。駅伝などで活躍後、2017年に現役を引退。現在は同社企業スポーツ推進室に在籍し、スポーツ活動全般への支援、地域・社会貢献活動をはじめ、陸上競技の普及活動にも携わる。