『特集:Jリーグが好きだっ! 2021』 2月26日に開幕するJリーグ。スポルティーバでは、今年のサッカー観戦が面白くな…

『特集:Jリーグが好きだっ! 2021』

 2月26日に開幕するJリーグ。スポルティーバでは、今年のサッカー観戦が面白くなる、熱くなる記事を随時配信。さまざまな視点からJリーグの魅力を猛烈アピール! 今回はJリーグひと筋でプレーしてきた選手の「タラ・レバ」を妄想してみた。もし、彼らが海外移籍していたら......。



規格外のプレーでファンの度肝を抜いた久保竜彦

 この数年で、日本サッカーを取り巻く環境は新時代を迎えたと言っていいだろう。以前は日本代表クラスにだけ拓かれた海外移籍の道は、今では20歳前後の選手が将来性を買われて海を渡っている。

 その一方、Jリーグひと筋でプロキャリアを送る選手も少なくない。海外クラブからのオファーがありながらも、年齢や家族、条件面などをクリアできずに断念したケースもあるが、今回はそうした「Jひと筋組」の選手のなかから、海外の舞台で輝く姿を見たかった8選手をピックアップした。

 まずは、昨シーズン限りで現役を退いた中村憲剛だ。2003年から18年間の川崎フロンターレでの輝かしいキャリアは、今さら紹介するまでもないだろう。

 その中村が自身にあった海外移籍について語っているのが、DAZN(ダゾーン)で公開されている『内田篤人のFOOTBALL TIME #8』。それによれば30歳を迎える2010年のW杯後に、PSV(オランダ)をはじめとするいくつかのクラブから獲得の打診があったという。実現しなかった理由は、その時点で30歳という年齢にあったそうだ。

 ただ、そこからの10シーズンのJリーグで見せた、年齢を感じさせないパフォーマンスを思い出すと、広い視野と相手DF陣の急所を突くグラウンダーの長短のパス、そして機を見て果敢にシュートを狙うという中村らしいプレーは、やっぱり海外リーグでも見たかったと思ってしまう。

 J1リーグ通算得点歴代2位の161得点、2012年にはMVPと得点王に輝いた佐藤寿人も、昨シーズン限りで21年の現役生活にピリオドを打ったが、28歳だった2010年に海外移籍の機会があったそうだ。

 それは、三浦知良が1999年に所属したこともあるディナモ・ザグレブ。2010年7月20日付の日刊スポーツは『Jリーグ 広島 クロアチアリーグ強豪ディナモ・ザグレブが佐藤寿の移籍打診』と報じている。

 記事によれば、当時サンフレッチェ広島を率いたミハイロ・ペトロヴィッチ監督がディナモ・ザグレブとの親交が深く、2009年のトルコでのキャンプの際、同クラブとの練習試合で2戦2ゴールを決めた佐藤が高く評価されたという。

 この時の心境については、今年2月のインタビューで佐藤本人が明かしているので、そちらもチェックしていただきたい(『佐藤寿人にあった幻の移籍話。「家族以外、誰にも言っていない」』)。キャリアを重ねながらゴール前での「ワンタッチ・ゴーラー」へと変貌していった佐藤が、彼の憧れた元イタリア代表FWフィリッポ・インザーギを生んだセリエAを目指して海外リーグでゴールを重ねる......というドラマも見てみたかった。

 遠藤保仁の場合、オファーは事欠かなかったようだが、タイミングと希望が合致せずに海外でのプレーは実現しなかった。

 遠藤に初めて海外移籍の話が浮上したのは2000年。スイスのクラブからオファーがあったという。だが、このシーズンで所属していた京都パープルサンガがJ2降格となったなか、稲本潤一のアーセナル移籍によってボランチ補強に動いたガンバ大阪を新天地にした。

 2003年末には契約交渉で、海外挑戦に向けた特別条項の付加を要望。希望するスペインやポルトガルへの移籍に向けて動き出したが、この年に結婚・第一子誕生と環境が様変わりしたことで、海外挑戦のハードルは高まったのかもしれない。

 2008年には『サッカー 英2部プリマス、G大阪・遠藤獲り 来年1月移籍も』(スポーツニッポン・11月10日付)、2011年には『遠藤にオイルマネー2億円』(日刊スポーツ・6月25日付)の見出しでカタールのクラブが獲得調査に乗り出したと伝えたが、実現には至らなかった。

 その遠藤とG大阪、ジュビロ磐田で一緒にプレーする今野泰幸の場合、海外移籍のチャンスをケガで逃している。

 セリエAのレッチェから動向を注視されていた2005年末、天皇杯の試合で左ひざを負傷。全治6週間とすぐに試合に出られる状態にはなかったが、それでもスポーツ報知『サッカー F東京・今野泰幸にセリエAのレッチェから獲得のオファー』(2006年1月8日付)によれば、レッチェから日本での治療を許可するVIP待遇で正式オファーは届いた。

 だが、イタリアでの健康診断の結果、左ひざの状態が見込みほど軽くはないことが判明。獲得は見送りとなった。

 翌年もセリエAジェノアから獲得の興味を示されたものの、最終的には正式オファーに至らずに移籍話は霧散。日本代表監督だったイビツァ・オシム監督から厚い信頼を寄せられたポリバレントなボランチが、全盛期に『守備の国』イタリアでプレーする姿は見たかったものだ。

 1980年生まれの黄金世代にあって、小野伸二とともに最初に日本代表にたどり着いた市川大祐(2016年引退)も、海外リーグで見たかった選手だ。

 181cmの長身と躍動感のある攻撃参加が持ち味で、1998年4月にソウルで行なわれた『W杯共催記念日韓戦』で、高校在学中17歳322日の日本代表最年少記録で日本代表デビューを果たした。当時の日本サッカー界にとって、市川は"希望の星"でもあった。

 しかし、周囲に期待されるストレスと「常に全力投球」という性格が災いして、1999年のワールドユース直前でオーバートレーニング症候群を発症。2000年シドニー五輪代表からも落選した。だが、2001年末に日本代表合宿に招集され、2002年W杯日韓大会の代表メンバーに選ばれた。

"タラ・レバ"を言い出せばキリはないが、市川に遠回りした時間がなければ、長友佑都によって開かれる「日本人サイドバックの海外挑戦」の扉は、もっと早いタイミングで市川によって開かれていた可能性はある。

 規格外のスーパーゴールを何度も見せてくれた久保竜彦(2015年引退)も、海外リーグで見たかったストライカーだ。ゴール後に見せる頬をすぼめたひょっとこ顔でのタコ踊りが海外ではどんな反応をされたのか、今でも妄想してしまうほどだ。

『痛い!瞬間/久保竜彦−ケガと戦い続けた現役時代。諦めたW杯と海外挑戦』(週刊ポスト2020年12月11日号)によれば、久保自身が「ロシアやベルギーからオファーがあった」と答えている。ただ、すでに持病の腰痛とひざ痛が悪化し、日常生活にも支障をきたしていたなかでは考えられなかったことだと、記事では振り返っている。

 日本人選手の海外挑戦を振り返ると、大きなターニングポイントと言える出来事のひとつは、中田英寿のセリエAペルージャへの移籍だろう。デビュー戦でいきなりユベントスから2ゴールを奪い、日本人が海外でも通用するという可能性を見出してくれた。

 その中田とともにU−17、U−20、アトランタ五輪に"飛び級"で代表入りしたDF松田直樹(2011年没・享年34歳)も、海外リーグで見たかった選手だ。

 高卒1年目ながら横浜マリノス(現F・マリノス)で開幕スタメンを奪取し、2002年の日韓W杯ではトルシエジャパンのフラットスリーの一角として全試合にフル出場。2003年、2004年は横浜FMでチームキャプテンとしてJリーグ2連覇を達成した。

 名実ともに日本を代表するDFに成長したこの頃は海外移籍を意識し、イタリア人代理人がセリエAへの売り込みに動いていたという。だが、故障の多さに泣かされて実現には至らなかった。

 そして最後は、田中マルクス闘莉王を挙げたい。ブラジル生まれで、千葉県の渋谷幕張高入学と同時に来日。高校卒業した2001年にサンフレッチェ広島でプロキャリアをスタートさせたが、意外なことにプロとしては日本以外のプレー経験はない。海は渡ってきたのだが、サッカーキャリアとして海は渡らなかった。

 2005年には、当時所属の浦和レッズとの契約更改交渉の模様がスポーツ報知『サッカー 浦和・闘莉王が海外移籍を直談判』(2005年12月7日付)で伝えられた。それによると、闘莉王はヨーロッパへの移籍希望をクラブに伝えたという。

 翌年以降も契約更改のたびに、海外移籍への意欲が報じられた。そしてついに2009年末、海外移籍のチャンスが訪れる。ACLで8強に進出したウズベキスタンのブニョドコルが獲得に乗り出した。

 しかし、闘莉王が選択した移籍先は名古屋グランパスだった。さらに2011年にはブラジルのボタフォゴから正式オファーが届いたものの、それも見送っている。

 もちろん、海外に行くばかりがプロキャリアの正解ではない。だがそれでも、やっぱり一度は彼らが海外リーグでプレーする姿を見たかった。そう思わせてくれるだけのパフォーマンスを、彼らはJリーグで、日本代表で見せてくれたということでもある。