約20年前、世界で唯一定期的に開催され続けていた女子総合格闘技団体が日本に存在。「ジョシカク」のパイオニア「スマックガール」だ。そこで闘う選手 の姿に魅了され、格闘技を始めた奥村ユカ。3度目の出産後、子宮頸がん・半月 板損傷の手術を乗り…

約20年前、世界で唯一定期的に開催され続けていた女子総合格闘技団体が日本に存在。「ジョシカク」のパイオニア「スマックガール」だ。そこで闘う選手 の姿に魅了され、格闘技を始めた奥村ユカ。3度目の出産後、子宮頸がん・半月 板損傷の手術を乗り越え、再び闘いのリングへ!

--⼩さい頃はどのような⼦供でしたか?
奥村ユカ(以下 奥村):地元は宮崎で、結構複雑な家庭でしたね。⽣まれて1,2歳の頃、交通事故で⺟親を亡くしました。その後、⽗が再婚し妹が⽣まれ、父母、姉、妹の5人家族です。
ただ、どういう理由か分かりませんが、私だけ祖⺟と暮らしていました。祖母が亡くなる小学6年生までその生活でしたね。
家族が住む家には誕⽣⽇やクリスマスに⾏くのと学校の先⽣から預かったプリントとかを持っていった記憶しかないです。

--奥村さんのおばあさんが他界した後は⼀緒に暮らしていたのですか?
奥村:はい、⽗の家に住みましたが、それまで別々に暮らしていたので、他の家族との距離感に悩みました。常に不貞腐れている、すごい感じの悪い⼦供でしたね(笑)
1⽇も早く⾃⽴したくて中学卒業後、すぐに働きました。1年くらいは家から勤務先まで通っていましたが、17歳で家出です(笑)

--リアル尾崎豊じゃないですか。
奥村:18歳で⼦供を産んで、最初の結婚をしました。ただ、酒癖が悪く仕事もしない男性でした。束縛も酷く私に⼿を上げる。いくらイケメンでも酒癖悪いのと仕事しないのはだめですね。学びました(苦笑)

--壮絶な10代ですね。
奥村:⼦供を産んで2ヶ⽉くらいで、その状況から飛び出し、⼦供を抱えて各地を転々としました。ただ10代で⼦供がいると働き先も限られます。寮付き託児所付きのところを探して、働いていましたね。

--若い時から苦労されましたね。
奥村:ただ当時は、何が苦労かもわかっていませんでした。今同じことをしろ!と⾔われても絶対にできませんが(笑)実家にも帰れなかったですし。それで東京に出たのが19歳でした。

--ところで、どういうキッカケで格闘技を始めたのですか?
奥村:昔から戦隊ヒーローものが好きでした。⼩学⽣の時、同級⽣で空⼿をやっている⼥の子がいました。それがすごく羨ましかった。
中学になると、男⼦は体育の授業で「柔道」がありますが、⼥⼦はありません。これがまた凄く羨ましかったんです(笑)
それで中学を卒業して、16 歳で空⼿の道場に通いました。ただタイミングが悪いことに知⼈がバイクの事故で⼊院。仕事終わりで病院に通い世話をしていたせいで、空⼿から⾜が遠のいてしまいました。

--その奥村さんが、どういう経緯で格闘技の世界に戻られたのですか。
奥村:上京した後、2度⽬の結婚をしますが、これまた相⼿の酒癖が悪かったり、責任感がなかったりと大変で。周りに頼る⼈もいなくてパニック障害になり通院。そんな時に格闘技をしている⼥性に出会いました。
その⼈が格闘技の試合に出場するというので、友達とディファ有明に観戦しに⾏きました。それが今のジョシカクの先駆けとなった「スマックガール」でしたね。
試合を観て、「やりたい!」と思ったんです。ただ小さい娘が2人いたので、すぐには始められなかったですね。なかなか格闘技ジムに通えなくて、気がついたら年齢が 20 代半ばになっていました。
そしてキックボクシングを始めたのが26歳の時。そしたら肩こりが無くなりパニック障害も落ち着き始めました。多分、⾝体を動かした事で、いろいろなものが整ったのだと思います。キ ックの練習は、とにかく楽しかったですね。

--奥村さんはキックだけではなく、総合格闘技からブラジリアン柔術、シュートボクシングと様々な⼤会に出場していますよね。
奥村:キックの練習しかしていないのに、スマックガールアマチュア⼤会に出場しているんですよ。これは寝技ありの総合の試合です。「全然イケる」と思って(笑)
何にも考えず、格闘技雑誌の「アマチュア選⼿募集」に応募。キック始めて半年くらいの時でした。結果、もちろん何もできませんでした(苦笑)
そこで「総合の試合に出るなら、総合のジムに⾏かなくちゃ」と思って(笑)

--キックボクシングのジムに通っていたら、普通⽴ち技の試合に出場するのに、総合格闘技がデビュー戦だったのですね(苦笑)
奥村:よく観にいく⼤会が「スマックガール」で、勝⼿に「試合をするなら スマックしかない」と思い込んでいたんです(苦笑)
それから総合のジム「S-KEEP」に通い始めて、27歳の5⽉にスマックガールで総合格闘家としてプロデビューしました。
その当時、S-KEEPにプロレスラーの⾼岩⻯⼀さんが講師として、時々教えに来られていました。なぜか「⾼岩竜一の⼀番弟⼦」とプロレス雑誌に掲載されたこともありました。
スマックガールは出場する選⼿にキャッチコピーがあり、私は「リトルデスバレー」。プロレスファンの⽅には申し訳ない気持ちでしたね(苦笑)
デビュー後、スマックには間を置かず試合を組んでもらいました。前の試合から期間を3ヶ⽉置かずに。⼥⼦選⼿が少ないという事情もあったと思いますが、誘われたら断らずに出場していましたね。でも負けが続き、「噛ませ⽝」みたいな感じになっていました。
2006年8⽉DEEP⼥⼦で活躍していた、しなしさとこ選⼿と渡辺久江選⼿がライト級王者決定戦を⾏い、渡辺選⼿が勝利。翌⽉、しなし選⼿の再起戦の相⼿を私が務め、秒殺。名古屋から腕をギブスで吊られて帰って来たこともありました(苦笑)
とにかく試合に沢⼭出場しましたが、勝てずに負けが重なる。そうすると負け癖がついてネガティブな気持ちに落ちこむ。そこで S-KEEP は⼤好きなジムだったけど環境を変えようと決意しました。
当時、住んでいた横浜市⽇吉に「SOUL FIGHTERS JAPAN」という道場ができて、そこに移籍。柔術を⽇系ブラジル⼈の⻘⽊イズマエルさん、キックは元ムエタイ王者のファビアーノ・サイクロンさんが教えてくれました。
ここは常設ジムのため、練習し放題。午前中がプロ選⼿の練習、午後はフィジカルトレーニング、夜は⼀般の会員向けのクラスがある。各分野、実績のある先⽣たちが指導してくれました。ここにいたら強くなれると確信して練習に励んでいる時、東⽇本⼤震災が起きました。
そしてジムは半年間で閉鎖になりました。どんな事情があったか分かりません。ただそのことで格闘技に対するモチベーションは⼀気に落ちましたね。

--その落ちたモチベーションは、徐々に回復しているのですか?
奥村:どうですかね(笑)。私は「SOUL FIGHTERS JAPAN」に⾏って柔術を始めました。ジムが閉鎖し、イズマエルさんに最後にお会いした時「柔術は続けてね」と言われました。
プロ格闘家として負けが続き未来が⾒えない時、イズマエルさんに出会い、柔術に出会った。そこで改めてプロ格闘家として頑張ろうと思い、必死に練習をしました。ジムの閉鎖を聞いて、確かに 1 度はモチベーションが落ちました。
でも、私を救ってくれたイズマエルさんに勝った姿を⾒せたい。今は⽇本にいませんが、柔術を続けていれば、いつかイズマエルさんに会えるかもしれない…と思って続けています。
現在はストライプル世⽥⾕にお世話になっています。代表の⼭崎先生が、いろいろな格闘技⼤会のレフェリーをしています。技術やルール等、学ぶことがたくさんありますね。⼭崎先生の人柄か、会員さんも明るく練習熱⼼な⽅が凄く多いです。

--今後の⽬標教えていただけますか?
2018年に18年ぶり3度目の出産をしたんですが、その時に子宮頸がんの一歩手前の高度異形成が見つかって、出産後に手術。試合復帰を目指していた昨年には半月板損傷で膝を手術。年齢的にも身体中ボロボロなんです(笑)
現役で試合をしていた頃より体重も20キロ増えてますしね(笑)でも、三女に格闘技をやらせたい。
なので、三女の記憶に残るくらいまでは私が続けていなければ。と、思っています。上二人の娘にも試合をしているところを見せたことないので、娘三人に試合を見せる事が目標ですね。いつになるかわからないですけど(笑)

<プロフィール>

奥村ゆか:宮崎県出身 所属 ストライプル世田谷

2人目出産後から格闘技を始め、2007年に「スマックガール」でプロ格闘技デビュー。

その後、キックボクシングと総合格闘技で試合を行う。2010年、柔術に出会う。

現在、格闘家として復帰を目指す。

 

ストライプル世田谷Webサイトはこちら→http://strapple.1bandesu.com

 

取材・文/大楽聡詞