人的補償の男たち(5) 第1回から読む>>小田幸平(巨人→中日) 「必要とされて移籍したわけで、実際にそれを証明できた、…
人的補償の男たち(5) 第1回から読む>>
小田幸平(巨人→中日)
「必要とされて移籍したわけで、実際にそれを証明できた、と言い切れるくらいは長くやれた自負があります」
近年は併用制を敷くチームが増えているが、プロ野球には「優勝チームに名捕手あり」と言われるほど、キャッチャーの固定起用をよしとする風潮があった。しかし実際は、ひとりのキャッチャーだけで長いシーズンを戦うのは難しい。ケガで離脱するなど万が一の時に、正捕手と遜色ない力を発揮できる控え選手は、今も昔も重要な存在といえる。
そんな役割を長年務めたのが小田幸平だ。巨人と中日での通算出場は371試合。キャリアを通しても2008年中日での41試合が最多出場だが、17年間もプロ野球の世界に身を置いた。

2005年12月、人的補償で巨人から中日に移籍した小田
photo by Kyodo News
小田にとっての大きな転機は2005年のオフ。野口茂樹がFAで巨人に移籍したことに伴う、人的補償として中日への移籍だった。
同オフ、すでに契約更改を終えていた小田は、フロントからの呼び出しですべてを悟る。巨人は中日から野口茂樹を、西武から豊田清をそれぞれFAで獲得していたが、呼び出しを受けた時にはまだ人的補償の選手が決まっていなかった。
「この時期にトレードはないだろうし、呼ばれた時点ですぐ『人的補償だな』とわかりました。(プロテクトの)枠に入ってなかったんだなと。もしそうなら、僕は西武より中日に行きたかった。当時、中日は谷繁さんという絶対的キャッチャーがいて、落合監督のもとで強くなって優勝もしていたので」
小田の予想どおり、告げられたのは人的補償としての移籍だった。結果的に西武への人的補償は江藤智が選ばれ、小田は中日に移籍することになる。
「中日は当時、暗いイメージがあったので、僕に与えられた使命はチームを明るくすることだと思って移籍しました。入団会見の時には、(2003年オフに巨人から中日に移籍した)川相昌弘さんが会場のホワイトボードに『ようこそ、中日へ』と書き残してくれていたり、面識がなかった選手に『巨人の選手からよろしくって言われたぞ』と話しかけられたりして嬉しかったですね。日頃からコミュニケーションを取っておく大切さを感じましたし、それは野球以前の問題だったんだなと気づかされました」
周囲が動いてくれたということは、小田の普段の姿勢が認めてられていたとも言えるだろう。中日へのスムーズな移籍を可能にしたのも、野球以前に人としてコミュニケーションを大切にしてきたことの賜物だった。
「コミュニケーションについては狙ってやっていたというより、『やっておいてよかった』とあとから気づくことが多かったですね。もともと、キャッチャーはコミュニケーションを取ってピッチャーに好かれないとやっていけないと思っていました。僕は打てるキャッチャーでもなかったし、ドラフト4位だし、なおさらコミュニケーションを取っていかないといけない。巨人時代に清原(和博)さんや桑田(真澄)さんたちと関わる中で自然に教えられた感じです。
印象に残っているのは、巨人に入団したての頃、ブルペンで桑田さんのボールを初めて受けた時のこと。桑田さんが立ち投げで投げたカーブが僕の膝に当たったことがありました。想像以上に曲がったので捕れなかったんです。バッティングがダメな分、守備で魅せようと思っていた僕はショックを受けました。そこに、投球を終えた桑田さんが近寄ってきて、『キャッチングうまいね』と声をかけてくれたんですよ。そこから、守備では絶対に誰にも負けないと心に誓いました」

今年からは三菱重工Westのヘッドコーチを務める
photo by Mori Daiki
その決意に違わず、小田は守備面を中心に力を伸ばしていく。ブロックについては故・野村克也氏からも褒められるほどのストロングポイントになった。また、中日から人的補償に選ばれた理由として、のちに落合博満監督から「アライバ(荒木雅博、井端弘和)の盗塁を阻止していたから」と明かされたという。
当時の中日には絶対的正捕手・谷繁元信がマスクを被っていたため、移籍しても出場機会を得られるかはわからない。それでも小田は自分の役割に徹し、来たる出場機会に備えて万全を期してきた。その根底には、小田なりの「移籍」や「選手」に対する持論がある。
「基本的にトレードや人的補償というのは、社会人でいうところの"部署移動"だと思うんです。選手は"プロ野球"という会社に所属していて、"球団"という部署に属しているという感覚ですね。
アメリカではトレード移籍となると、その選手は必要とされていると感じて喜んで移籍すると聞きます。一方で、日本ではマイナスに受け取りがちというか、寂しいと捉える選手が多い。でも選手なら、そんなことを言ってる場合じゃないと思うんですよ。僕だってもともと阪神ファンですが、最初の"配属先"はライバルチームの巨人だった。でも、自分を求めてくれる場所から声がかかるなんて、こんな嬉しいことはないですし、やるしかじゃないですか」
肩書き云々ではなく、小田は自分を必要としてくれる場所で求められる役割を全うすることを大切にしてきた。中日に移籍した際に掲げた「チームを明るくする」という役割を果たし、小田は2015年1月、17年間のプロ生活に別れを告げた。
「明るくベンチを盛り上げられる選手がチームには必要だと思いますよ。自分も指導者になってからは、そういう選手がいないか探します。『声で2点取れる』なんてことも言われますけど、それは本当にあると思っていて。大きくリードされてもベンチにそういう選手がひとりいて、アホなことをやってくれると盛り上がる。昔から僕もそういう存在になりたかったんです。それは全うできたかな」
しかし小田は、「悩みを抱えると長く考え込んでしまう性格」と自身を分析している。明るく誰からも愛されている姿からは想像がつかない。そんなネガティブな面も克服する考え方の転換が、小田の人生をプラス方向へと動かしていったのだ。
「僕はもともと失敗を引きずるタイプで、例えば1点リードの9回から守備交代で入ってサヨナラ負けを喰らったりした日は、1カ月ぐらい悩んでしまうくらいでした。中日だったら、岩瀬(仁紀)さんがそのシチュエーションで打たれたら僕に責任がありますからね。夜も眠れないくらい落ち込みます。
でも、ある日出会ったお坊さんに『結果は最初から神様によって決められていた、と考えたら楽になりますよ』と言われたことをきっかけに、すべてポジティブに考えられるようになったんです。もちろん失敗について反省しなくていいわけではないですが、気持ちを切り替えるための発想として、この考え方は僕に合っていました」
だから、小田に「たられば」は存在しない。どこかでひとつでも歯車が食い違っていたら、今の小田幸平はなかった。
「僕は生まれ変わっても同じ道を歩みたい。レギュラーにもなりたくないです」
人生は選択の連続である、という言葉が存在するが、まさに選ばれた"道"やタイミングが異なればまったく違う結果にたどり着いていたかもしれない。小田にとって遭遇した出来事、出会った人との縁などすべてが、今の自分を作り上げるために欠かせなかったこと。人的補償による中日移籍もそのひとつで、小田が長く選手を続けるターニングポイントになった。
「今でも『人的補償? あぁ俺のことね』と思っています(笑)。赤松(真人:2008年に阪神→広島。移籍後実働10年)の前は、僕が人的補償で移籍してから一番長く現役を続けた選手だったんです。だから人的補償という言葉に対してポリシーがある。
僕は巨人で8年、中日で9年やりました。中日に移籍する時は、誰も巨人より1年も長くやれるなんて思っていなかったはずです。僕みたいな、レギュラーを1回も獲れなかった選手ならなおさら。でも、人的補償であっても必要とされて移籍したわけで、実際にそれを証明できた、と言い切れるくらいは長くやれた自負があります。いい制度だし、いい呼び方だと思いますよ。誰がつけたのか知りたいくらい(笑)。
僕がここまで長く野球がやれたのは、人的補償という制度があったから。そうでなければ小田幸平という選手が全国に知られることもなかったでしょうし、今回の取材もなかったでしょう。まとめると、『人的補償最高! ありがとう!!』ってことですね。このテーマを、ここまで明るく話せるやつはいないんじゃないですか(笑)」
小田は今年から、自身のアマチュア時代の古巣が再編・統合されて発足した三菱重工Westのヘッドコーチに就任することが決まっている。地元・兵庫の社会人チームを指導するという次なる"道"を歩む小田のもとで、どんな選手が育つか楽しみだ。
(第6回につづく)
■小田幸平(おだ・こうへい)
1975年3月15日生まれ。兵庫県高砂市出身。三菱重工神戸から1997年のドラフト4位で巨人に入団。捕手としての能力を落合博満に高く買われ、人的補償で2005年に中日に移籍。チームの雰囲気を盛り上げる2番手捕手として、2014年シーズンまでプレーした。引退後はコーチや解説者として活躍。2021年から三菱重工Westのヘッドコーチを務める。