「オシムの教え」を受け継ぐ者たち(4) 第3回を読む>>小倉勉 前編 今から18年前、ジェフユナイテッド市原(現千葉)の…
「オシムの教え」を受け継ぐ者たち(4) 第3回を読む>>
小倉勉 前編
今から18年前、ジェフユナイテッド市原(現千葉)の監督に、大柄なボスニア人指揮官が着任した。彼の名は、イビチャ・オシム――。1990年イタリアW杯でユーゴスラビア代表をベスト8へと導いた知将だった。
鋭いプレッシングと、後方から選手が次々と飛び出していくアタッキングサッカーで旋風を巻き起こした"オシム・ジェフ"は、瞬く間に強豪チームへと変貌を遂げる。のちに日本代表監督も務めた指揮官は、ジェフの何を変えたのか。その教えは、ともに戦った男たちの人生にどんな影響を与えたのか。「日本人らしいサッカー」を掲げた名将の薫陶を受けた"オシムチルドレン"やスタッフたちに、2022年カタールW杯前年のいま、あらためて話を聞いた。
第4回に登場するのは、当時トップチームのコーチを務めていた小倉勉。オフがないことや、独特のトレーニングが話題になった"オシム流"の練習について語った。

オシム体制のジェフでコーチを務めていた小倉(左)photo by AFLO
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Jリーグが誕生する4年前の1989年に西ドイツ(現ドイツ)に渡り、ブレーメンで約2年間、体育教員を務めながらアマチュアとしてプレーし、指導者の勉強も積んだ小倉勉にとって、それは夢のような出来事だった。
西ドイツが3度目の世界制覇を成し遂げた1990年イタリアW杯でチェコスロバキア、ユーゴスラビアをそれぞれベスト8に進出させた2人の世界的な名将と、立て続けに仕事をすることになったのだ。
「西ドイツにいた頃には、まったく想像できなかったことでしたね」
1993年のJリーグ誕生に向けてプロ化されたジェフユナイテッド市原(現千葉)から誘いを受けた小倉は帰国後、ジェフのアカデミーやサテライトチームのコーチを歴任する。1999年から2000年までは日本サッカー協会に出向してトレセンコーチを務め、ジェフに復帰してからは、トップチームのコーチを務めることになった。
当時のジェフでは、欧州から監督を招く路線が続いていた。そして2002年に元チェコスロバキア代表監督のジョゼフ・ベングロシュが、2003年には元ユーゴスラビア代表監督のイビチャ・オシムが監督に着任したのである。
「(当時GMの)祖母井(秀隆)さんから『オシムさんと交渉している』と聞いていたけど、長引いていて。韓国キャンプが始まる段階になっても決まらなかったから、キャンプではコーチだった僕らが指導したんです。本当に来てくれるのかな、と心配していたんですけど、2週間くらい経った頃かな、祖母井さんから『契約できた』という連絡がきて、オシムさんが韓国にやって来た。その後の1週間はオシムさんが指導したんです」

現在、小倉は横浜F・マリノスのスポーティング・ダイレクターを務める(写真:横浜F・マリノス提供)
まるで陸上選手のように選手たちが徹底的に走らされた韓国キャンプで、小倉の印象に残っているのは、キャンプを打ち上げた際のオシムとのやり取りだ。オシムが「帰ったら本格的な練習をやろうか」と言ったのである。
「え、この3週間もみっちり練習やってましたけどって(苦笑)。これは大変なことになるな、と思った記憶があります」
2003年シーズンが幕を開けた。ジェフは開幕2連勝を飾ったが、3節でヴィッセル神戸に0-3と大敗したのを契機に、オシムはメンバーを入れ替えた。それまで起用していたベテランを外し、のちにチームの主軸となる羽生直剛と佐藤勇人をスタメンに据えたのだ。
誰もがアッと驚くメンバー変更と思われたが、小倉は指揮官の決断を予想していた。
「オシムさんがやろうとしていたサッカーを実現するには、技術があって、なおかつ走れなきゃいけない。開幕当初は、これまでチームを支えてきた経験のある選手たちに敬意を払って起用していましたけど、どこかのタイミングで切り替えるだろうな、というのは感じていましたね」
こうして2トップに崔龍洙(チェ・ヨンス)とサンドロ、トップ下に羽生、2ボランチに阿部勇樹と佐藤、右ウイングバックに坂本將貴、左ウイングバックに村井慎二、3バックに茶野隆行、ミリノビッチ、斎藤大輔、GKに櫛野亮、という顔ぶれが中心になっていく。
5節の横浜F・マリノス戦、6節の京都パープルサンガ戦、7節のセレッソ大阪戦で白星を重ねて首位に浮上したジェフは、8節で名古屋グランパスに1-2と敗れて首位の座を譲ったものの、11節で柏レイソルを2-0で下して再び首位に返り咲く。
快進撃の理由のひとつに、試合から逆算したトレーニングがあった。
例えば、2対2のトレーニング中、残りの選手たちが見守っていると、オシムは「なぜ、サポートに行かないんだ?」と苦言を呈す。いやいや、2対2をやると言ったじゃないですか、と困惑する選手たち......。
「でも、試合中に2対2の局面がそのままってことは絶対にないですよね。誰かがサポートに行くし、相手も寄ってくる。試合中には2対2が3対2とか、4対2とか、4対3とか、目まぐるしく変わる。ただ、なんでもかんでも行けば、スペースを消すことにもなる。だから、トレーニングの中で、どのタイミングで、どこにサポートに行くのか考えるようになる。考えることが習慣化されれば、無意識でやれるレベルになり、自動化されていく。オシムさんのメニューはすべて、そういった狙いが隠されているんです」
どんどん変わるのはルールだけではない。練習メニューそのものも、あってないようなものだった。オシムに重用されたひとり、坂本は「オシムさんは練習開始の10分前くらいにやって来て、車から降りてそのままピッチに入って、練習を始めるような印象だった。だから、スタッフも何をやるのかわからず、大変そうでしたね」と証言する。
もっとも、小倉は「いや、一応、明日はこんな練習をするつもりだ、という話はしてくれるんですよ」と補足する。
「ただ、天候だとか、選手のコンディションに合わせてメニューは変わるし、そのメニューをしっかりこなせれば、どんどん次の段階に進んで、できなければ繰り返す。人数や環境、状態に合わせて変化させていくわけです」
どのチームであってもゲーム形式の練習にコーチが人数合わせのために参加することはあるが、ジェフではヘッドコーチの小倉やコーチの江尻篤彦、フィジカルコーチの松本良一までもが練習にしょっちゅう駆り出された。それだけではない。ミスをすれば、選手と同じようにオシムに怒られ、走らされることもあった。
だが、小倉にネガティブな感情は一切なかった。
「オシムさんは事細かに説明なんてしないから、最初の頃は意図がわからなかったんだけど、選手と一緒になって練習をこなしたからこそ理解が早まったし、選手たちに噛み砕いてアドバイスもできた。それに選手たちも、コーチが一生懸命走っているんだから、自分たちもやらなきゃ、という雰囲気になりましたから。ただ、常に頭と体をリフレッシュさせておかないと、我々も付いていけない。だから、2部練習の時は、疲労を回復させるために我々コーチも選手と同じように昼寝してましたよ(苦笑)」
当時のジェフはオフがないことでも知られていた。ある日、「オフをもらえるように交渉してこい」と先輩たちに言われたキャプテンの阿部がオシムのもとを訪ねると、「引退したら十分休めるし、現役生活は短いんだから、練習できるうちはやったほうがいい」と却下された。阿部が言わされていることを察知したオシムは「休みたいやつがいるなら、休ませてやるから、直接言いに来い」とも言った。
「これはね、オシムさんのオフの考え方が独特なんですよ(笑)。土曜日に試合をした場合、日曜日は午前中にリカバリーを行ない、月曜日の練習を夕方に設定する。そうしたら24時間以上、空くじゃないですか。『その間に体を休めればいいじゃないか』と。『夕方から練習すると、夜眠れない』と選手たちが訴えれば、『だったら、朝寝ればいいじゃないか』と。
あと、2部練習もよくやっていたんですけど、9時半から始まって11時に終わって食事して、いったん帰宅して休んで、17時くらいからまた練習が始まる。『夜飲みに行こう』とか考えているから嫌なのであって、サッカーにすべてを注いでいるのであれば、練習して、休息を取って、練習するのが最も合理的だろうと。もう、おっしゃるとおりで」
サッカーでメシを食っているんだから、サッカーにすべてを懸けろ――。
それが、オシムの言い分だった。
この頃のジェフは、最終ラインでひとり余らせ、あとはマンツーマンでマークするスタイルだった。ともすれば、ひと昔前のサッカーに見えたかもしれないが、小倉は「あれは攻撃のための形だった」と明かす。
「ひとり余らせていたのは守備のためではなく、最終ラインで数的優位を築いて攻撃を組み立てていくため。当時Jリーグでは2トップが主流だったので、3バックなら必ず1枚が浮いた状態。それを生かして、いかにボールを運んでいくか。守備の時もマンツーマンというより、近くにいる相手を捕まえてインターセプトを狙う。奪ってそのまま出て行けば、相手を置き去りにできるし、それが敵陣だったら得点の確率は高くなる」
つまり、トータルフットボールを目指していたのだ。
首位で迎えた1stステージ13節、敵地に乗り込んだ3位のジュビロ磐田戦に2-2と引き分け、ジュビロの自力優勝の芽を摘み取ったジェフは、残り2試合となっても首位に立っていた。
ところが翌節、初優勝のプレッシャーから経験不足を露呈して清水エスパルスに0-3と完敗し、1stステージ優勝を逃してしまう。2ndステージでも優勝争いを繰り広げながら一歩届かず、年間3位に終わったが、ジェフの躍進は大きな称賛を浴びた。
この2003年シーズン、ジェフを凌いで完全優勝を成し遂げたのは、岡田武史監督率いる横浜F・マリノスだった。その 16年後、F・マリノスのスポーティング・ダイレクター としてリーグ優勝を果たした小倉は、不思議な巡りあわせを感じていた。
(後編につづく)
■小倉勉(おぐら・つとむ)
1966年7月18日生まれ。大阪府出身。ドイツでの指導者経験を経て、1992年からジェフの育成組織で指導を開始。トップチームコーチも歴任し、2006年に日本代表のコーチに就任。2010年南アフリカW杯にも帯同した。その後、複数のJリーグクラブでコーチなどを務め、現在は横浜F・マリノスのスポーティング・ダイレクターとしてチームを支えている。