【短期連載】FAは誰を幸せにするのか?(3) 先発投手にとって最高の栄誉である沢村賞に輝いた2年後の2000年オフ。当時…

【短期連載】FAは誰を幸せにするのか?(3)

 先発投手にとって最高の栄誉である沢村賞に輝いた2年後の2000年オフ。当時29歳の川崎憲次郎は、キャリアの岐路に立っていた。

 フリーエージェント(FA)権を行使し、翌シーズンを迎えるまでに3つの選択肢があった。

(1) 良き仲間がいて、愛着もあるヤクルトへの残留
(2)FA宣言した直後から熱心に誘ってくれた中日への移籍
(3)レッドソックスに入団し、夢のメジャーリーグ行きの実現

 高卒12年で88勝を積み重ねた男は、悩みに悩んだ。最後の決断を下すまでの1週間、ほとんど眠ることができなかったほどだ。

「進んでいい道が3本あって、どれもいい道なんです。だからこそ、決めづらい選択でした」



2000年オフ、FAでヤクルトから中日に移籍した川崎憲次郎(写真左)。右は星野仙一監督

 大分県立津久見高校から1988年ドラフト1位でヤクルトに指名された川崎は、2年目から先発ローテーションに定着。リーグ優勝や右ヒジの故障、カムバック賞や日本シリーズMVP、最多勝&沢村賞など紆余曲折を経て、気づけばFA権を取得していた。

 メジャーへの憧れを持ち始めたのは、1997年くらいだ。当時、ヤクルトはインディアンスと提携していて、シーズンオフになるとクリーブランドへ自主トレに出かけた。

 トップレベルの日本人選手にとって、メジャーが「現実的」な選択肢になり始めた頃だった。1995年にドジャースと契約した野茂英雄がトルネード旋風を巻き起こすと、伊良部秀輝、長谷川滋利、吉井理人らが海を渡る。先人たちの姿を見て、川崎は「自分にも可能性があるんじゃないか」と思い始めた。

「ダイヤモンドバックスに来いよ」

 1998年の日米野球に出場した際、知人を訪ねて相手ベンチに行くと、"メジャー史上最強左腕"のランディ・ジョンソンにそう声をかけられた。たとえ社交辞令だとしても、この上ない言葉だった。

 同年に川崎はリーグ最多の17勝を挙げ、沢村賞に選ばれている。いわば日本人投手の「頂点」に立った証で、次のステップを目指したい気持ちが湧き上がってきた。

「メジャーに行きたかった一番の理由は、いろんなことを経験したいという気持ちでした。もちろん成績を残したいけど、メジャーに行けばアメリカのベースボールをプレーできる。それからアメリカの文化、語学、トレーニング方法。自分がメジャーを経験すれば、下の者に伝えられると思いました」

 子どもの頃から大好きで続けてきた野球で、どこまで登り詰めることができるか。己の腕一本で生きるアスリートが、より高いレベルで実力を試したいと考えるのは当然だろう。

 同時にプロ野球選手にとって、野球は仕事である。お金を稼ぐ最大の手段であり、会社員のように長く現役生活を続けられるわけではない。

 養わなければならない家族もいる。FA宣言した頃、川崎の妻は第一子を出産したばかりだった。初めての子育ては、誰しも不安を覚えるものだ。それを異国で行なうとなれば、どれほど大変だろうか。

 プロ野球選手、夫という立場の狭間で、川崎は揺れ動いた。

 FA権の行使を考え始めた当初は、メジャー移籍か、ヤクルト残留かの二択で考えていた。選択肢が3つに増えたのは、決してポジティブな理由ではない。

「ヤクルトは、仕掛けが遅かったんです。それで自分を本当に欲しいのかな、と。監督、コーチ、選手たちが心配してくれて、『どんな話があったの?』って逐一聞いてくれました。でも『何もない』『マジか......』って」

 当時のヤクルトは、端境期にあった。1990年からの9年間で4度のリーグ優勝に導いた野村克也が退き、1999年から引き継いだ若松勉の下、2年連続4位に終わった。川崎がFA権を取得したのは、ちょうどそんな頃だった。

「スワローズには最初、熱意とか誠意とか『気』につながるものを感じられなかった」

 交渉を始めた当初、メディアにそう胸の内を明かしている。果たして、他球団は自分をどう評価しているのか。ヤクルトのエースがそう考えるのは、自然の流れだった。

 FA宣言すると、即座に連絡をくれたのが中日だった。

「交渉はヤクルトが先だったので、提示された金額もすべて新聞に出ていました。それを中日は見て、『うちはもっと出すよ』とすぐに条件提示してくれました」

 ヤクルトには感じられなかった「気」が、中日からはひしひしと伝わってきた。

 同時に、海外からもオファーが次々と届いた。インディアンス、フィリーズなど5球団が手を挙げたなか、最も早く条件提示したのがレッドソックスだった。

「2年契約最低保証金5億円」。当時そう報じられたが、「もっとありました」と川崎は振り返る。さらに家族が渡米する際には飛行機のファーストクラスが用意され、ホテルはスイートルームに宿泊できる。日本ではあり得ない高待遇に加え、熱意の証が添えられていた。オーナー直筆の手紙だ。

「英語なので何が書いてあるかはわかりません(笑)。でも、まさかそんなことをしてくれるとは思っていないじゃないですか」

 レッドソックスの好条件は、報道を通じて日本にも知れ渡った。

「メジャーがそれだけ出すなら、うちも出すよ。4年いたら出て行ってもいいから、とりあえず来てくれよ」

 負けず劣らず熱心に誘ってくれたのが、中日だった。佐藤毅社長から3度に渡って便箋計40枚の手紙が届き、星野仙一監督や、交渉担当役の児玉光雄球団代表補佐からも熱意が伝わってくる。

 夢を追うならレッドソックスだが、家族を最優先するなら中日だ。両者とも、心から自分を必要としてくれている。もちろん、良き仲間たちがいるヤクルトに残りたい気持ちもある。

 なかなか答えを出せない一方、周囲はそんな胸の内を知るよしもなかった。スポーツ紙には「川崎、3年12億要求」とありもしない話を書かれ、記事を目にしたヤクルトファンが「川崎、何様だ!」とインターネットの掲示板に怒りをぶつける。虚像の世界で、川崎は"悪者"に仕立て上げられた。

「もちろん嫌ですよ。でも、プロ野球選手だから情報が全部出るわけです。当時は『どうせ、言われているだろうな』くらいしか思っていなかったです。だって、仕方ないじゃないですか」

 妻に相談し、一人じっくり考える。結論を簡単に出せなかったのは、3本の道はどれもいいものに思えたからだ。希望と不安。夢と現実。人生には常に二律背反がついて回る。

「どの道も『いいよ』と言われるなか、こっちに行けば何があるんだろうなと。ヤクルトならわかっているから踏み出すのは簡単だけど、アメリカか名古屋かとなったとき、どっちに行こうかなと。どっちに行こうが、絶対"何か"あるんですよ。一歩踏み出せば全然なんてことないんだろうけど、踏み出すまでの勇気が必要だった」

 決断を下すまでの期限が迫ってくる。最後に背中を押されたのは、1本の電話だった。

「巨人だけには、とにかく勝ってくれ。名古屋という街は、そういうところだから」

 声の主は、星野監督だった。現役時代は打倒巨人に心血を注ぎ、歴代6位タイの35勝を記録。1987年から中日を率い、闘将として巨人相手に火花を散らしている。そんな男から、「巨人に勝ってくれ」と頼まれたのだ。

 川崎自身、ジャイアンツキラーとして名を馳せた。高卒12年で重ねた88勝のうち29勝は巨人戦で記録したものだ。セ・リーグに生きる男にとって、星野の言葉は響いた。

「星野さんは35勝で、俺は29勝。うまいこといけば、1年で追いつくかもしれない。星野さんの前で記録を抜きたかった。それがオレの夢だったんです」

 新天地での背番号は、杉下茂、権藤博、小松辰雄らエースに継承される20番に決定。年俸2億円の4年契約で合意した。

 じつは、中日は「メジャーがそれだけ出すなら、うちも出す」とさらなる高額をオファーしている。だが、川崎は固辞した。

「最初にバンと出してくれた金額がそれだったので、『それ以上はいらないです』と言いました。『気持ちが伝わりました。ありがとうございます』って」

 川崎の行為は、"男気"と表現することもできるだろう。ただし、そのひと言だけで片付けられる決断ではない。

 夢、現実、家族、誇り、挑戦心、仲間、愛着、そしてお金----。

 はたして川崎は、どのように決めたのだろうか。

「基本的に野球選手をやっているときは、一人の人間ではなく"川崎憲次郎"という商品です。それを誰がどれだけの金額で欲しいか。そのときに自分の価値がどれくらい高まるか、という話です。

 選手の価値は年俸でしか評価されないので、絶対必要です。だけど、『あいつはカネ、カネ言っている』と言われやすいので、それは困りますよね。もちろん、お金はあればあるだけいい。でも、それだけではないです。お金以外のことのほうが、選手はたぶんデカい。選手としてのランクですよね」

 フリーエージェントになった選手が市場に出たとき、価値を決めるのは手を挙げた球団たちだ。そもそもなぜ欲しいのか。その意思表示として、どんな値付けをし、条件を提示するのか。

 ヤクルトに「気」を感じず、中日やレッドソックスからそれが伝わってきたことで、川崎の気持ちは大きく動いた。選手としての価値を認められたからだ。

 中日はレッドソックスと同じ年俸を出すと言ったが、川崎は固辞した。最大限に評価されていると感じられたから、最初の提示額で十分だった。

 名古屋に行けば、自分と家族の幸せを最大限に追求できる----。

 そうして踏み出した先には、予想だにしない4年間が待っていた。