2004年から北海道に本拠地を置く日本ハムが、ドラフト1位右腕・伊藤大海(苫小牧駒澤大)とともに指名した道産子選手が、…

 2004年から北海道に本拠地を置く日本ハムが、ドラフト1位右腕・伊藤大海(苫小牧駒澤大)とともに指名した道産子選手が、ドラフト5位の左腕・根本悠楓(はるか/苫小牧中央高校)だ。

 根本は、1974年に都市対抗で優勝した大昭和製紙北海道(1996年廃部)が拠点を置いていた白老町で生まれ育ち、中学時代から豊富な実績を残してきた左腕が高校でさらなる成長を遂げ、夢のスタートラインに立った。



苫小牧中央の渡辺監督(写真左)の指導もあり、順調に成長を遂げた根本悠楓

 白翔中時代は全国中学校軟式野球大会の決勝戦で完全試合を達成して日本一の栄光に輝き、軟式球児で結成される侍ジャパンU-15代表(※)にも文句なしで選出された。
※U15アジア選手権はKENKO WORLD BALL(通称Kボール)を使用するため、一般財団法人日本中学生野球連盟が主管して編成された「中学軟式球児による日本代表」が派遣されている

「最初は馴染むのに大変でした」と振り返るように、合宿中はどこか居場所がないような雰囲気で不安を感じたが、大会が始まるとその姿は一変した。

 チャイニーズ・タイペイ戦では2回無安打無失点、韓国戦で3回1安打無失点とそれぞれ2番手として好投して、4大会ぶり2回目の優勝に大きく貢献。大会最優秀投手にも選出されるほどの堂々としたピッチングを披露した。

「自分のピッチングが通用したので、自信はかなりつきました」

 そう振り返った根本は、日本ハムで活躍した武田勝コーチからけん制のやり方をとくに学んだと言い、「首の使い方やランナーを刺しにいくけん制、刺しにいかないけん制を教わりました」と、心技体で大きな収穫を得た。

 中学球界を代表する逸材に多くの高校が勧誘したが、根本は意外な決断を下す。

「地元の選手が多い高校で勝っていきたいなと思いましたし、祖父母の近くでやりたい気持ちが強かった」と、甲子園未出場の苫小牧中央への進学を決めた。

 甲子園についても、きっぱりとこう話す。

「どこの高校に行っても必ず甲子園に出られるというわけではないですし、自分の練習の取り組み方で甲子園やプロに行けるかが決まる。だから、自分でどれだけ追い込んでやれるかだと思っていました」

 中学3年でそんな決断ができること自体驚きだが、その言葉どおり、苫小牧中央に進んだからこその成長を遂げていく。

 根本のいとこが主将をしていた関係で、根本が小学6年の時から知っていたという渡辺宏禎監督は、次のように語る。

「努力家で真面目。やれと言ったことはやるし、やるなということはやらない。人物として絶対に通用すると思います」

 技術面についても「入学当初から球の出どころが打者から見えづらかったですし、球の回転もすばらしかった。抜群の制球力と度胸がありました」と賛辞を惜しまない。

 根本もまた、渡辺監督に感謝する。

「体づくりの方法や投球の間(ま)や守備についても教えていただき、成長することができました。ピッチングの考え方がとてもよくなったと思います」

 その指導法についても「渡辺監督から『こう変えなさい』と言われることはほとんどなく、まず自分で考えてやってみて、悪いところがあったら監督がアドバイスをくれるというやり方だったので、考える力がすごく身につきました」と自主性を身につけた。

 下級生の時から登板機会が多く、同地区で全国制覇の経験もある駒大苫小牧とも4度対戦した。すべて勝つことはできなかったが、1点差3試合、2点差が1試合と強豪校を大いに苦しめた。とくに今夏の独自大会は、15三振を奪って本塁打を放つなど、試合には2−3で負けたが強烈なインパクトを残した。

 中学時代からキレ味抜群だったスライダーに加え、ストレートも最速146キロをマークするまでになった。スカウト陣はドラフト前から「早くから一軍に出てくるイメージの投手」「打たれるわけがない、というような雰囲気でマウンドに立っている。根性のすわった投手」と高く評価していた。

 渡辺監督も根本の成長に目を細める。

「努力の賜物です。筋トレをはじめ、理にかなった取り組みをしていましたから。夏の甲子園の開催中止が決まった翌日も黙々と走るタイプ。チームにいい影響をたくさん与えてくれました」

 プロでの抱負について、根本はこう語る。

「どんな状況でもチームを勝たせられるような投手になりたいです」

 甲子園で躍動した選手たちに比べると、全国的にはまだ無名の存在かもしれない。しかし、最初に頭角を現すのは、もしかしたら根本かもしれない。そんな期待感が、根本の投球だけでなく、彼の言動や周囲の声からも十分伝わってくる。