「オープン球話」連載第41回【破壊力抜群だった1985年のタイガース打線】――さて、八重樫さんが現役時代だった頃の思い出…

「オープン球話」連載第41回
【破壊力抜群だった1985年のタイガース打線】
――さて、八重樫さんが現役時代だった頃の思い出を振り返っていただくこの連載。今回からは1985(昭和60)年に日本一に輝いた阪神タイガースの超強力クリーンアップ「ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布」の3選手について伺いたいと思います。
八重樫 あの年の阪神はとりわけピッチャーがよかったわけじゃなくて、打線がピッチャーを助けながら勝ちを拾っていくチームだった。まったく切れ目のない打線だったけど、その中心が「バース、掛布、岡田」だったな。

1985年、1986年と2年連続で三冠王に輝いたバース
――確かに、「一番・真弓明信、二番・北村照文(弘田澄男)、三番・バース、四番・掛布、五番・岡田、六番・佐野仙好、七番・平田勝男、八番・木戸克彦」と続く打線は、他球団にとって脅威だったでしょうね。
八重樫 八番の木戸がまた勝負強くて、いいところで打っていたんだよ。強いて言えば、平田のところでちょっとだけホッとできる感じだったかな。とにかく、真弓を含めてホームランバッターがズラリとそろっていた印象が強いですね。
――「30本カルテット」と呼ばれていましたよね。手元の資料を見ると、「真弓34本、バース54本、掛布40本、岡田35本」と、信じられないほど打ちまくっていますね(笑)。
八重樫 ファン目線で言えば、あの年の阪神の試合は面白かったと思いますよ。
――そういえば、1985年10月16日、21年ぶりのリーグ優勝を決めたのは神宮球場でのヤクルト戦でしたね。
八重樫 あのシーズンは、僕もプロ入り初の打率3割がかかっていたんですよ。残りあと数試合で、規定打席に達していて打率も3割を超えていた。で、当時の土橋正幸監督から「どうする? この阪神戦は休むか?」と聞かれたことを覚えているな。
――打率3割をキープするために、あえて試合を欠場するかどうかということですね。
八重樫 でも、僕は別に数字を気にしていなかったんで、「出ます」と言って阪神戦に出場したんだよね。結局、残り数試合で3本か4本ヒットを打って、打率.304で終わったよ。
【「バースの怖さは、決してフルスイングをしないこと」】
――さて、それぞれの打者について伺いたいと思います。まずは「三番・バース」ですが、この1985年は彼にとって、来日3年目、初の三冠王を獲得したシーズンとなります。
八重樫 この頃のバースの怖さは、決してフルスイングをしないことだった。普通、外国人選手は強引にスイングするタイプが多いんだけど、バースの場合は日本人的というのか、ちゃんと呼び込んで打つことができる。来日1年目はそうでもなかったけど、2年目くらいからはスイングが変わった印象があります。
――ボールを呼び込んで、逆らわずに右に左に打ちわけるイメージですね。
八重樫 普通のメジャーリーガーはアウトコースのボールでも、とにかく思い切り引っ張る。でも、左バッターのバースはホームベースの真ん中で線を引いて、左半分ならばレフトへ、右半分ならばライトへ。そんなバッティングをしていたよ。しかも、力任せじゃなくてバッティングが柔らかい。
――「バッティングが柔らかい」というのを詳しく教えてください。
八重樫 先ほども言ったように、バースは100%の力でバットを振らない。70%、80%の力でスイングするんです。おそらく、彼のバットはヘッド部分がかなり重いはずですよ。バッドのヘッドの重さを利用して打球に力を与える。そういうスイングが「柔らかい」というスイングなんだよね。それに、右ひざが崩れないのもバースの特徴だな。
――投手側のひざが崩れないということは、しっかりとボールを見極めることもできるし、余分な力を必要としない理想的なスイングができる。それもまた、八重樫さんの口からしばしば飛び出す「中西太理論」のひとつですね。
八重樫 そうだね。この頃、中西さんは近鉄のコーチだったけど、阪神のコーチ時代(1979年から1981年)には掛布や真弓たちを一流打者にしたわけだから、その中西さんの教えがチームに残っていたんじゃないのかな?
【1988年のバースは体がボロボロだった】
――ヤクルト投手陣の「バース対策」はどんなものだったんですか?
八重樫 この年のバースに関しては、もうお手上げ状態だった。王(貞治)さんが三冠王を獲った時もそうだけど、1985年のバースはどんなボールでもしっかりと見極めて、甘いボールを確実に仕留める完璧さを備えていたからね。バースも掛布も左バッターなのに、左ピッチャーをまったく苦にしないのが、とても厄介だったな。
――当時のヤクルトの左投手といえば梶間健一さん、大川章さんといった名前が挙がります。
八重樫 掛布は梶間を苦手にしていました。横から投げて外に逃げていくスライダーを空振りすることが多かったね。でも、バースは右ひざがまったく崩れないから、じっくりと引きつけて簡単にレフトにホームランを打っていたよ。
――そうなると、まさに「お手上げ状態」なんですね。
八重樫 一応、「インハイを攻めてカウントを整えてからアウトコースで勝負する」という基本スタンスはあったんですけどね。インハイを意識させておくと、彼はアウトコースのボールが見えなかったんですよ。梶間でも、来日当初はこの攻め方で成功したんだけど、その後はまったくダメだったな。
――数年先の話になりますが、1988年シーズン、息子さんの病気をめぐる騒動によって、バースは途中帰国。そのまま退団となりました。のちに発売された『バースの日記。』(集英社文庫)を読むと、ヤクルト入りの可能性もあったそうですね。
八重樫 えっ、そうなの? 全然知らなかった。
――1982年から1984年まで阪神の監督だった安藤統男さんが、当時はヤクルトのヘッドコーチでした。その縁もあって、ヤクルト入りに積極的だったそうです。
八重樫 そうなんだ。でも、1988年頃のバースは、相当コンデイションが悪かったですよ。たぶん左ひざだったと思うけど、一塁ベースを駆け抜ける時でも足を引きずっていたから、仮にヤクルト入りしたとしても、阪神時代のような成績は残せなかったんじゃないかな?
――ちなみに、掛布さんの本(『巨人-阪神論』江川卓、掛布雅之著・角川oneテーマ21)によれば、当時ヤクルトの監督だった関根潤三さん自ら、掛布さんに獲得交渉したものの、掛布さん自身が固辞したことで実現しなかったそうです。
八重樫 バースと掛布がヤクルト入りしていたら、また違った歴史が築かれていたかもしれないね。今回はバースに関する話が多かったけど、次回は掛布と岡田についても詳しく話しましょう。
(第42回につづく)