2020年の夏、東京パラリンピックが開催されるとき、26歳になる稲葉将が、小6のとき、リハビリの一環として楽しんでいた馬術を競技として始めたのは2017年。スタートは決して早くなかったが、挑戦することを決めた後、目標に向かって突き進む行動力…

2020年の夏、東京パラリンピックが開催されるとき、26歳になる稲葉将が、小6のとき、リハビリの一環として楽しんでいた馬術を競技として始めたのは2017年。スタートは決して早くなかったが、挑戦することを決めた後、目標に向かって突き進む行動力は群を抜いて早く、いま、東京パラリンピック代表に手の届くところに来ている。柔和な笑顔を絶やさず、落ち着いた雰囲気の稲葉だが、話を聞けば、意外な情熱家だった。

 子どものころは少年野球チームに入っていたんです。でも、だんだんと同じ練習についていけなくなって、他に何かできることはないかなって。それが母に半ば強引に連れていかれた乗馬でした。馬に乗ってみると意外と目線が高く、恐怖感もあり、決してこれからもやりたいという感じではなかったです(笑)。

練習前にカサノバに優しく語りかける稲葉

 そんな理由もあってだんだんと行く回数も増えて、楽しいなと思うようになったんです。もともと動物は好きだし、日常では味わえない風を感じられる魅力がありました。それに元来、負けず嫌いな性格で。他のパラスポーツも体験したけれど、馬術はパラリンピックでも採用されているし、クラス分けもあって自分のカテゴリーで戦うことができる。そのときは競技志向ではなかったけれど、母によるとそんな馬術が僕に合っていると感じていたみたいですね。

 「すごい世界に来ちゃったな」。そして「僕が競技をやったとしても恥ずかしいレベル。遠い世界の話だ」と思っちゃったんです。いま思えば、その大会は(競技レベルが)最上級の大会ではなかったんでしょうけど……。日本も含めて、すべての選手が手の届かないレベルだと思い込んでしまいました。

 大学3年から大学4年にかけ、交換留学でオーストラリアに行ったんです。もともと海外の文化に興味があったからですけど、漠然と、もし馬術を始めたら、語学ができたほうがいいよね、という思いもありました。別な意味で下地作りをしていたのかもしれません。

雨天時も円形馬場で馬に乗り、課題に取り組む
よりよい練習環境を求めて

 競技経験がほとんどない僕が、あと3年で東京パラリンピックに出たいって、ほぼ無謀な挑戦なわけじゃないですか。だったら、最短距離も最短ルートで行かないと間に合わない。そこで最短距離を一番知っている浅川さんにコンタクトをとらせていただいたんです。

 当然、そのころ、僕には実績が何もなかったんですけど、競技への思いだけはあったのでいろんな企業さんに図々しく伝えさせていただきました。そのなかで障がい者アリスートとして受け入れてくださったのが所属先のシンプレクスです。水曜日から日曜日まで静岡乗馬クラブでの練習に専念させていただくことになりました。

週の5日を静岡で過ごし、馬術漬けの毎日を送る
芽生えたトップ選手の自覚

 世界選手権に出ることが一つの大きな目標だったのでうれしかったんですけど、この大会でメダルをめざす多くの選手を見て、僕も出るだけじゃダメだと思ったんです。もっと上を目指す意識でやらないと、上に行けない、と肌で感じました。

 2019年に今の僕の実力より少しだけ背伸びした馬を買おう、というみんなの意見で買った馬です。性格はいい子なんですけど、ファーストコンタクトのとき、カサノバは僕に近寄ってこなかったんですよ。普段、僕は足を引きずって歩くので砂利道で音が出てしまうんですが、この音に驚いてしまったんです。

 僕の悪い癖がつきやすいんです。たとえば僕は左利きなので、緊張すると左に力が入りやすい。すると右手前は得意だけど、左手前は動かしにくいとか、左右差が出やすいんです。クセを覚えられると困るので、一方の練習量を減らしたりする工夫をしています。

東京パラリンピック延期もポジティブに捉え、情熱を絶やさない
東京パラリンピックで上位に食い込むために……

 70%行けば、東京で5、6位には入るかなというレベル。だから東京に向けてまず70%という数字を出したあと、そこからさらに伸ばせ、という話なんです。僕の場合、自分の意志とは関係なく、体が勝手に動いて馬が何かの合図だと思って動いてしまうときがあるので、そのあたりの調整が難しい。なるべくリラックスしたり、特殊馬具で工夫して、調整法を見つけようとしています。

 静岡乗馬クラブでは、1日に4頭乗ることがありますが、カサノバだけだと1日に30分しか乗れなかったりします。日本でこれだけたくさん馬に乗れる環境はなかなかないんです。馬によっていろんな感覚の違いもあって試行錯誤も生まれるので、馬に乗れる時間が長いことは自分の武器だと思っています。

手入れや鞍付けなどほぼすべてを稲葉自身で行う

text by TEAM A

photo by X-1