鈴木明子インタビュー後編、18歳で心の病に直面し“生きる目的”すら失いかけた日

 フィギュアスケートで五輪2大会出場した鈴木明子さんが「THE ANSWER」のインタビューに応じた。29歳まで続けた競技人生で最大の困難になったのが、大学入学後の18歳で直面した摂食障害。体重が32キロまで落ち、競技から離れ“生きる目的”すら失いかけた。インタビュー後編は「鈴木明子が語る摂食障害の怖さ」。当時の壮絶な経験を明かすとともに、同じ病に直面する選手、家族に対して想いを語った。

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 女性アスリートに多い健康問題の一つ、摂食障害。アスリートの過食症、拒食症の発症率は一般女性よりも多く、国際的なスポーツ団体も警鐘を鳴らしている。

 特に、体型が著しく変化する10代、そして審美系、持久系、階級制競技や種目のアスリートに多いとされ、近年は、選手自身が摂食障害であることをカミングアウトするケースもみられる。なかでも女子フィギュアスケートでは、元全米女王のグレイシー・ゴールドや、ソチ五輪で団体金メダリストになったユリア・リプニツカヤ(ロシア)といった、元トップスケーターたちが告白。特に19歳で引退することとなったリプニツカヤの告白は、スケートファンに限らず、多くのスポーツファンに衝撃を与えるニュースとなった。

 日本の元フィギュアスケーター鈴木明子さんもその一人だ。彼女は、様々なメディアや講演会で、競技選手時代の摂食障害の経験を語り続けている。

「摂食障害の家族を抱える方たちの会に行くと、皆さん、『とにかく治す方法を教えてほしい』と、すがるような気持ちでいます。私の経験は、ただの一例でしかないし、どうすればよいとは言えない。ただ、それでも役に立てればと思い、話をしています。

 摂食障害って、以前は“隠された病”だったんですね。私も親も最初は摂食障害だって、恥ずかしくて、表では言えなかった。一方で、悩んでいる方は世界中にいた。最近ではこの問題がニュースになると、SNSでもワッと皆が話題にするようになり、『ああ、ようやく世に出てくる時代になったんだな』と感じています」

 鈴木さんが摂食障害となったのは、練習拠点の名古屋を離れ、仙台の東北福祉大に入学する直前のことだった。成長期の中学・高校時代は家族のサポートもあり、成長に伴う大幅な体重増に悩むことはなかったという。

「私は15歳で生理が来ました。当たり前ですが、女性は初潮を迎えると子供から大人の体形になっていきます。でも私の場合、朝・昼・晩と母がきちんと栄養バランスを考えた食事に整えてくれていたので、急激に体重が増えたり、体型が変わったりすることはなかったんです」

 成長期であれば食欲も旺盛になる。「もっとがっつりご飯を食べたい!」と思うことも、もちろんあった。ときには練習後にメロンパンを買い食いし、うっかりパッケージをカバンに入れたまま帰宅しては、「母に見つかって、めっちゃ怒られていました」と笑う。

「ただ、友達がお菓子を食べていても、私はやめておこうと気にはしていました。フィギュアスケートの場合、いきなり体重が増えると、膝や足首に負担がかかり、ケガのリスクが高まるといわれています。当時は 『とにかく太ったらダメ』と言われていて、ケガにつながることまでは理解していませんでしたが、頑張っているのに体形が変わり、だんだん成績を残せなくなる先輩たちの姿を見ては、太りたくない、私はもっと上に行きたいんだと思っていました」

 その頃、鈴木さんは地元と、後に引退時まで指導するコーチのいる仙台の2か所で練習をしていた。当時の体形は身長160センチ、体重48キロ。普段の生活で体重が1、2キロ増えることがあっても、仙台での練習にはきっちり元の体重に調整し、臨んでいたという。

「コーチや周囲から『明子はちゃんと練習に体を合わせてくるな』『いつも体形を保っていて偉いね』といつも褒められていました。それでいつしか、『私はこうでないとダメなんだ』と思うようになって。また、体重が50キロに近くなると『ちょっと重くなってない?』『47キロにしておきなさい』などと言われていたので、その言葉を忠実に受け止めて頑張っちゃったんです」

 高校3年になると、体重を気にして肉類をほとんど口にしなくなった。今でこそ、たんぱく質や良質な脂質の重要性も一般に浸透しているが、当時は「ダイエットをするならば、栄養よりもカロリーが大事」という時代。「肉類は良くないらしい」という情報を鵜呑みにし、たんぱく質は大豆製品と鶏のささ身だけを食べた。

「私のベストは47キロなのか」。その数字に根拠はなかったが、鈴木さんの脳裏に刻まれた。その“たった1キロ”の落ちない体重が、知らず知らず、心の錘となっていく。

 それは、大学入学直前にクロアチアで開催された国際大会の終了後のことだった。

48キロあった体重が32キロに、SOSは「出せなかったです」という理由とは

 チームのスタッフや仲間とともに空港でステーキを口にした鈴木さんは突然、体に変調をきたし、トイレで嘔吐する。

「試合で疲れている上、肉を控えていたので、胃がビックリしたんだと思います。でも、胃液までウワッと出て、吐くということが、すっごく苦しかった。それでトラウマのようになってしまい、肉を食べることが怖くなってしまいました」

 また、実家から離れたことも、プレッシャーになった。「ここで太ったら、自己管理ができてないと思われる」。今までの「きちんと体形をコントロールできる」という褒め言葉が、「太ってしまったら自分ではなくなる」という強迫観念に転じた。

 そして大学入学後、たった1か月の間に、体重は48キロから40キロにガクンと落ちる。

「最初は『体重が減ってちょうどいい!』と思ったんです。でも、筋肉がどんどん落ち、体力がなくなり、練習が思うようにできなくなってしまった。摂食障害が怖いのは『じゃあ、これからは食べよう』と思っても、自分では食事のコントロールができなくなるところです。どんどん痩せていく自分には気づいてはいても、どうしたらいいのかわからない、という状態でした」

 もしかしたら、自分は摂食障害かもしれない。そう思うようになり、本も読み漁った。しかし、今度は「次は過食がくるのではないか?」「食べてしまったら、ブクブクと太っていくのではないか?」という恐怖心が先に立った。体重はついに38キロになり、事態を重く見たコーチと大学は、実家での静養を提案した。

 もっと早く、SOSは出せなかったのか? その問いに、鈴木さんはしばし考え、「……出せなかったですね」と答えた。

「自分でなんとかなると思っていたし、多分、コーチにも仲間にも、理解してもらえないと思ったから。一度、ツラいというようなことを言ったとき、その場にいた人に『食べればいいだけ。食べないのは甘えじゃない?』というようなことを言われたんです。『そうか、甘えなのかぁ』って、それから何も言えなくなってしまった」

 鈴木さんは大学側の提案を受け入れ、自宅に戻り、治療も始めた。だが、体重は減り続け、夏までに32キロまで落ちてしまう。

 回復に向かわない原因の一つは、母の言葉だった、という。

「何でもいいから食べなさい。スケートなんて辞めていい。とにかく普通の女の子として生きてくれればそれでいいの」。娘の命を守りたい一心から出た言葉はしかし、逆の意味で鈴木さんの心に届いてしまう。

「スケートを辞めたら、治ったところでその先、私は何を目標に生きていけというのか? 私は、母の言葉を受けて、成績を出さなければ、頑張れなければ、好きなスケートを続けることを許してもらえないと思ってしまいました。

 今となれば、心配から出た言葉だと、娘がどんな状態でも母は受け入れてくれるとわかります。でも、私は受け止め方を、母は使い方を、間違えてしまった。お互いの歯車が噛み合わなかったんです」

 その後、鈴木さんは心のうちをすべて母に吐き出した。何度も話し合いを重ねるうちに、母の言葉が変わった。

「生きているだけでいいし、食べたいものを食べればいいわよ」。この一言が、摂食障害から抜けるきっかけになった、という。

「このとき初めて、私って無条件に生きていてもいいんだって思えました。私なんてスケートもできない、学校もいけない、寝たきりの親のすねかじりだと思っていたけれど、そんな自分をようやく許せた。そして、母は『スケートは諦めなくていい。続けていいよ』とも言ってくれた。その言葉で、“生きるための目的”を失わずに済みました」

 その後、少しずつ体重も増えていき、10月、自分から申し出て大学に戻る。再び食べられなくなるかもしれないという恐怖から、泣きながら母に電話することもあったが、母や「不安になったらいらっしゃい」と声を掛けてくれる、内科医の看護婦の言葉が励みになった。

「体の検査や栄養指導を受けるうちに、自分の状況を理解し、競技に復帰するための現実的なプロセスが見えてきたことも良かった。最初は歩くことしかできなかったので、復帰までの道のりは途方もないというか、『これはヤバイ!』とは思いましたが(笑)」

 12月、38キロまで戻り、約5か月ぶりにリンクに立つ。そして翌年1月にはインカレに出場。以前の状態には程多く、表彰台には登れなかったが、とにかく、スケートができた。

選手、家族から絶えない相談「役に立てることがあれば、いくらでも私を使って」

「私が休んでいる間に、浅田真央さん、安藤美姫さんなど、一緒に頑張ってきた仲間がどんどん活躍し、世間では女子フィギュアスケートの黄金期と言われるようになっていました。テレビや雑誌で見るみんなの姿は、すごく輝いていて『あぁ、私はもう、皆がいるスポットライトが当たる場所にはいけないのかな』と正直、苦しかったですね。

 それでも、諦めなかったのは、スケートが好きだったから。スポットライトを浴びたい、トップに行きたいという以上に、戻ってきた気持ちを大切にしようと思いました。マイナスからのスタートでしたが、子どものときに味わった『あ、これ跳べた!』といううれしい気持ちをもう一度味わえて、『なんか、お得じゃん!』と思っていましたね」

 復帰に向かう一方で、「鈴木明子は終わった」という声も耳に届いた。冷ややかな評価は「ヒシヒシと感じていた」が、一番近くにいる家族やコーチのおかげで、自分を信じ続けることができた、と話す。

「特にコーチが希望を失わず、“できる”と信じさせてくれた。私一人だったら、絶対に(氷上に戻ることは)できなかったと思います」

 月日は流れ、迎えた大学4年のユニバーシアード。鈴木さんは復帰後初めて、国際大会で優勝を飾る。その後の活躍は言うまでもない。バンクーバー五輪、ソチ五輪と2度のオリンピック出場を経て、2014年3月の世界選手権を最後に競技引退。18歳で一度は危ぶまれたスケート人生は29歳まで続き、鈴木さんのスケーティングは引退するその日まで、日本中を魅了し続けた。

 さて、現在、鈴木さんは、プロスケーターとしてアイスショーに出演するほか、振付師として後進の育成にも尽力する。10代の苦しい経験を公にしていることで、選手やその家族からの相談は絶えないという。

「私は選手がSOSを上げられる環境を作らなくてはいけない、と考えます。悩みや不安を言葉にしたり、人の話を聞いたりすれば、気持ちの整理がつくことも、突破口が生まれることもあると思います。もしかしたら、『あれ、そんなに深く悩むことじゃなかったな』と気づけるかもしれない。

 私自身、当時、もっと人に頼ればよかった、誰かに話を聞いてもらえたらすっきりできたかなと思っています。ならば、私がその役をやればいい。私で良ければ不安や悩みを存分に聞きますし、役に立てることがあれば、どうぞいくらでも私を使って、という気持ちです。

 アスリートは孤独。頑張らなきゃと思うほど、すべて自分ひとりで抱えてしまう。でも、人間はそれほど強くないと思うし、だから支え合って生きている。ですから、みんな、もっと自分を大事にしようね、と伝えたい」

 若い選手に自己管理をしろというばかりでは難しい。周囲の大人たちは、選手一人ひとりと向き合い、本人たちが抱く競技や人生の目標やビジョンに耳を傾けてほしい、と訴える。

「アスリートであれば、将来よりも今、目の前のことを頑張りたいと思うのは当たり前だと思います。その気持ちを踏まえた上で、指導者や家族は、アスリートとして必要な体や栄養の正しい知識を共有し、本人の見えていない部分を含め、見守ってほしい。

 ただただ、痩せろというのではなく、正しい知識を持ち、選手の幸せは何かを第一に考える。そして、競技にどう取り組んでいけばよいかを、一緒に考えていくことが大切だと思います」

■鈴木明子

 1985年3月28日、愛知県生まれ。6歳からスケートを始め、2000年に15歳で初出場した全日本選手権で4位に入り、脚光を浴びる。東北福祉大入学後に摂食障害を患い、03-04年シーズンは休養。翌シーズンに復帰後は09年全日本選手権2位となり、24歳で初の表彰台。翌年、初出場となったバンクーバー五輪で8位入賞した。以降、12年世界選手権3位、13年全日本選手権優勝などの実績を残し、14年ソチ五輪で2大会連続8位入賞。同年の世界選手権を最後に29歳で引退した。現在はプロフィギュアスケーターとして活躍する傍ら、講演活動に力を入れている。(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)

長島 恭子
編集・ライター。サッカー専門誌を経てフリーランスに。インタビューや健康・ダイエット・トレーニング記事を軸に雑誌、書籍、会員誌などで編集・執筆を行う。担当書籍に『世界一やせる走り方』『世界一伸びるストレッチ』(共に中野ジェームズ修一著、サンマーク出版)、『つけたいところに最速で筋肉をつける技術』(岡田隆著、サンマーク出版)、『カチコチ体が10秒でみるみるやわらかくなるストレッチ』(永井峻著、高橋書店)など。