「オープン球話」連載第36回【球団の垣根を超えた交流はタブーだった】――2019年6月にスタートした「八重樫幸雄のオープ…

「オープン球話」連載第36回
【球団の垣根を超えた交流はタブーだった】
――2019年6月にスタートした「八重樫幸雄のオープン球話」。おかげさまで、連載続行も決まり、今回からは新たに「八重樫幸雄交遊録編」をスタートしたいと思います。
八重樫「交遊録」って言っても、他球団選手の友だちなんて全然いないよ。僕らが現役の頃は「他球団の選手と親しくするな」っていう時代で、今とはまったく違ったから。
――まさかの、開始早々の企画倒れ(笑)。確かに、他球団選手との交流が活発化したのは、ここ最近のことのような気がしますね。
八重樫 昭和時代は「プロ野球は勝負の世界だ」「プライベートでも他球団の選手と交流するな」という時代でしたから。せいぜい、同じ学校の先輩や後輩とあいさつを交わす程度。それに当時は、ほとんどオフ期間もなかったから、プライベートで交流する機会も時間もなかったんだよね。
――シーズンが終わってから、秋のキャンプ、秋のオープン戦もありましたよね。
八重樫 そう、まったくゆっくりする時間はなかったよ。それに僕の場合は、この連載でも言ったけど、荒川博さんの「荒川道場」に通って一本足打法の特訓もしていたでしょ。当時は12月30日の夜に実家の仙台に帰って、1月4日に東京に戻って自主トレをしていたから、交流する時間なんてなかったんです。だから、今の選手たちが球団の垣根を越えて自主トレを共にするなんて、まったく信じられないよね。
――八重樫さんは、現在の風潮には反対の立場ですか?
八重樫 いや、いくら球団が違っても、相手から「教えてください」と頭を下げて頼まれたら、一緒にトレーニングをするのは構わないと思う。だけど、それをマスコミに公表しているでしょう。あれはどうかと思うよ。
――かつて、ヤクルト・宮本慎也さんが現役だった頃、巨人・坂本勇人選手が自ら「一緒に自主トレをしたい」と松山で練習をしたことがありましたよね。
八重樫 聞かれたら教える。これは先輩としては当然の態度だと思います。でも、それを公にするのは反対だな。公にすることで、せっかく教えてあげた宮本が批判される可能性も出てくるでしょう。そういうのは避けるべきだと思うんです。
【現役時代、ウマが合ったのは「ヒロカズ」】
――いきなり、企画趣旨を全否定されてしまいました(笑)。プライベートでの交流はともかくとして、他球団で仲がよかった選手はいないんですか?
八重樫 「仲がよかった」と言えるかどうかはわからないけど、ヒロカズとはウマが合ったなぁ。
――「ヒロカズ」......。ひょっとして、加藤博一さんのことですか? 西鉄ライオンズ時代にスイッチヒッターに転向して、阪神タイガース、大洋ホエールズと移籍先で活躍。2008(平成20)年に56歳の若さで病気で亡くなられましたね。
八重樫 そう。若くして亡くなったので、とても驚きました。ヒロカズとはよく話をしましたよ。彼とは同い年で、プロ入りも一緒なんです。僕は横浜に住んでいるので、大洋時代のヒロカズとは、遠征に向かう時に新横浜の駅でよく一緒になって、いろいろ話をしたんだよね。一緒に酒を呑みに行くような仲ではなかったけど、移動時、試合前のグラウンドではいろいろ話をしたな。
――そうか、八重樫さんと博一さんは同い年で、プロ入りも1970(昭和45)年で一緒だったんですね。でも、オフにバラエティー番組でも大活躍していた陽気な博一さんと、チャラチャラした人が嫌いで寡黙な八重樫さんが「ウマが合う」というのは意外な感じがします。
八重樫 そうかな? でも、2人で話している時は、全然チャラチャラしたところがない生真面目なヤツだったよ。四六時中ふざけるようなヤツだったら、そんなに仲良くはならなかったと思うんだけど、野球の話、打撃理論になるとすごく真面目。僕も一緒に話していて楽しかったよ。
――学生時代に接点はあったんですか?
八重樫 いや、全然ない。ヤクルトに昔、永尾泰憲さんっていう選手がいましたよね。彼がヒロカズと同じく佐賀県出身なんですよ。それで、永尾さんとお酒を呑んでいる時に、ヒロカズの話題がよく出たんです。のちに永尾さんはヒロカズと阪神で一緒にプレーしていますよね。
【闘病中のヒロカズとの思い出】
――博一さんとはどんな話をしたんですか?
八重樫 バッティングの話が多かったな。ヒロカズも阪神時代に中西太さんの教えを受けているでしょう。だから、僕も彼も根本のバッティング理論は一緒なんですよ。ただ、細かいところはお互いに違っていた。その点を、「ああでもない、こうでもない」と話したよ。
僕もヒロカズも、ともにボールをギリギリまで引きつけて打つタイプのバッターだった。スイッチヒッターの彼は左打席に入った時に、後ろ足の左足のところでボールをとらえるイメージだったらしい。でも、僕は後ろ足じゃなく、ヘソの辺りまで引きつけてスイングするイメージだった。そんな話を身振り手振りを交えて話したね。
――この連載でも、たびたび中西さんからの打撃指導の話題が出ましたが、博一さんも「中西門下生」のひとりだったんですね。
八重樫 そう。でも、中西さんは「若松さん(勉)用」「岩村(明憲)用」「八重樫用」など、根本は同じでも選手のタイプに合わせた指導をする。だから、「ヒロカズ用」の指導もあったんだろうね。お互いの意見や気をつけている点を話し合うのが楽しかったんだよ。
――博一さんは引退後、フジテレビの解説者となり、八重樫さんは指導者としてヤクルトに残りました。彼の評論家時代にも交流は続いたんですか?
八重樫 彼がグラウンドに来た時には話はしたけど、彼はバッティング中の選手に勝手に指導をしちゃう。僕も経験があるけど、バッティング練習中に後ろのケージから、あれこれ口出しされるのはすごくイヤなんだよね。それで博一には「ちょっと黙ってろ」って言ったんだよ。そういうことを言ったのは、ヒロカズと田尾(安志)だけかな(笑)。
――加藤博一さんは2008年に亡くなられましたが、闘病を続けていたことはご存知だったんですか?
八重樫 いや、全然知らなかったな。一度、新横浜の駅でバッタリ会ったんだけど、その時にすごく痩せていて髪の毛も抜けていたんです。それで「おい、どうしたんだよ?」って聞いたら、「今、減量してるんだ」って言ったんだよね。現役時代から、彼は自分を追い詰めるタイプだったから、その時も「ストイックに減量しているのかな?」って思ったんだけど、まさかあんなに早く亡くなるなんて思わなかった。本当に残念だったよ。同い年だっただけにショックも大きかったな。
――最初に話題が出ましたけど、昭和当時の「交流」というのは、今の時代とはまた違ったつき合い方だったんですね。
八重樫 うん。決して、一緒にお酒を呑んだり、プライベートの交流があったわけじゃないけど、それでもこういう思い出もあるんだよね。本当にいいヤツだったな。
――博一さんと言えば、「スーパーカートリオ」の一員として有名でしたね。
八重樫 そうだよね。一番・高木豊、二番・加藤博一、三番・屋鋪要。俊足3人が並ぶ、あの当時の大洋打線は相手からしたら、すごくイヤだったよね。それじゃあ、「交流」というわけじゃないけど、「スーパーカートリオの思い出」を話してみようか。
――いいですね。当初の企画から変更して、「八重樫幸雄が語る思い出の名選手たち」というテーマで、進めていきましょうか?
八重樫 よし、そうしましょう。じゃあ、次回はヒロカズだけじゃなく、屋鋪要、高木豊も含めた3人について、話しましょうか。
――いいですね。1980年代前半の大洋ホエールズの目玉でもあった「スーパーカートリオ」について、ぜひ次回にお願いします!
(第37回につづく)