2016年のリオパラリンピックで100mバタフライの銀など4つのメダルを獲得した木村敬一は、2018年に単身で米国へ渡る挑戦に踏み切った。東京2020パラリンピックの目標は、悲願の金メダル。常に新しい自分を手に入れようとする、たくましき全盲…

2016年のリオパラリンピックで100mバタフライの銀など4つのメダルを獲得した木村敬一は、2018年に単身で米国へ渡る挑戦に踏み切った。東京2020パラリンピックの目標は、悲願の金メダル。常に新しい自分を手に入れようとする、たくましき全盲スイマーに話を聞いた。

「水泳選手になる前にメダリストになってしまっていた」

 リオまで、すごく頑張ったつもりだったので、あれ以上やらなければと考えると、次の4年間を乗り切る自信がありませんでした。自分が成長していると実感できる状況でなければ耐えられないと思いました。振り返ると、攻めた選択というより、逃げ出すような選択だったと思います。

7月下旬、低酸素環境下でトレーニングができるアシックスの施設で泳ぐ木村

 一番思い入れがあるのは、初めてメダルを取ったロンドンのレース。でも、あれが区切りであり、スタートでした。ロンドンの後、初めて専門のコーチに1対1で練習を見てもらうようになりましたが「健常者では、これくらいやれるよ」と言われたメニューがきつく、基礎体力も足りず、自分が恥ずかしくなりました。

 僕は、水泳選手というものになる前に、メダリストになってしまった。そう気づいた瞬間は、ショックでしたし(メダリストである自分の努力不足を感じることで)パラリンピックの価値も低くなってしまうような気がしました。だから、リオからの4年間は、金メダルを目指す気持ちと同じくらい、オリンピック選手と同じくらい頑張らないとダサいぞ、という気持ちを持って頑張りました。

スイムの合間には身体のコンディションに合わせジムでトレーニング
幼少期はケガだらけ、水を得たやんちゃ坊主

 小中高と特別支援学校で学習も保証され、周りも同じように目が見えない子でしたし、障がいに苦しめられることなく、すごく守られて育ってきました。学校のクラスも十数名で少人数。だから、日本大学に進学するときが、人生で一番不安でした。周りのみんなは目が見えているというのも初めてだし、マンモス校。でも、高校の担任に「友だちができるか心配です」と言ったら「お前でできなかったら、全員無理だ」とあっさり返されて、実際にすぐにできたので良かったですけど。

 姉と異なる小学校に行くことになるまで、自分は目が見えていない、他人とは違うという事情もよく理解できていませんでした。だから、幼い頃は「あいつ(姉)に出来て、俺様に出来ないわけがない」なんて思って、何でも負けずにやろうとしていました。

全盲の木村にとって壁とぶつからないよう練習中もタッピングは欠かせない
東京パラリンピックで金メダルを目指す2つの理由

 米国での2年間は、日々成長していると感じられて楽しかったです(※コロナ禍で活動が制限され、3月中旬に帰国後は日本で調整中)。現地で経験した話をすると、みんなが喜んでくれて嬉しいし、自分は、もしかしたら頑張っている方なのかもしれない、良い人生を歩めているかもしれないと、自分を肯定できるようになりました。英語を話せるようになり、異文化にも触れ、人生トータルで成長できました。この2年間は無駄な時間を過ごしていなかったと思えます。

コロナ禍でも厳しいトレーニングを積み、2021年のパラリンピックに備える

 東京パラリンピックには、2つの思いがあります。1つは、皆さんに、パラリンピックってすごいなと思ってほしいという気持ちです。とくに、水泳は(装具などを付けて泳ぐわけではなく)選手たちの障がいが見える状態で泳ぐので、すごく分かりやすいと思っています。身体の一部の機能が失われた状態でも、鍛え抜けば素晴らしいパフォーマンスに達することができるという意味で、オリンピック以上に人間が持っている可能性を体現できると思っています。

もう1つは、米国に行って感じたことですが、世界中の選手やファンが東京という町を訪れることをすごく楽しみにしています。僕は選手ですけど、一人の日本人として彼らをホストする立場でもあるので、良い思い出にしてほしいと思っています。そのためには(大会の雰囲気をつくる)日本の国民が大会を見て楽しんでいるか、盛り上がっているかという点が大事。そして、それは、僕たち選手のパフォーマンスが高いことで実現できることだと思っています。だから、僕は自分の泳ぎを高めて良いパフォーマンスをしたいです。

世界選手権で金メダルを獲得した木村(中央)は30歳で東京パラリンピックを迎える

text by Takaya Hirano

photo by X-1